どこへもいけない自分に少し、生かされているのかも

雑記

どこへもいけない、終着点のなさを憂いたこともあったし、実際にどこにもいけないことはある種の不安感を生み出すもとでもあるのだけれど、現実問題として私は、どこかへいってしまわない自分を常に確認しているのでした。

少し前の自分は、どこへもいけない自分を嫌っていたのに今度はどこかへいってしまいそうな自分が嫌になって、その繰り返しの果てに私は、どこかへいってしまいそうな自分を「素敵な文章」というかつての私が普遍的な輝きを認めた媒体をもってして繋ぎ止めるという実に奇怪な作業をしているようです。

ヘトヘトになって、毎日二時間や四時間の睡眠で山手線に乗ってまで、(成果報酬型とはいえ)仕事という妙なことに力を注ごうとするのは、本来私の求めていた穏やかで文化的な生活とは程遠いわけです。

それゆえ私はそれを自覚するたびわざわざ「昔々、人々はみんな名前を持っていた。そしてその名前は親によってつけられたものだと言われている。 そう本に書いてあった。」とかいう『さようなら、ギャングたち』の一節を思い出して、かつてと同じ震えるような感動を覚えることができるかどうかといったことを確認しなくてはならないのです。

今は忙しなくすぎる日々の中で、現実世界に達成しなければならない目標を抱えながら、それでいて文化的で輝かしい感性を持って、変わらず作家を目指したいとそう思っています。

全ての思いが、熱の注ぎ方が、いつか叶うであろう作家の夢への礎であると思えたらきっと、あらゆることを肯定して生きていけると思うのです。

いつもそう思っているつもりだけれど、昨日、久しぶりに喫茶店で本を読んだら余計にそう思えて、私はこの夢も完成も失いたくはないと思えたのです。

自分がどこへもいってしまわないように、いつか「どこか」ではなくて、私が自分で決めた最果てにいけるように、今はとにかく私が私を繋ぎ止めることで生きがいを作って生きていきたいです。

久しぶりにブログの文章を書いたら、頭がすっきりしてきました。これもまた一つ、毎日を生きるための原動力。

怠ることなく精進せよ。

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