私は五歳の時から高校三年生つまり十八歳までピアノを続けていたのですが、努力も才能と捉えるならあまりに才能がなく、他より譜読みが遅く、覚えも悪くてなおさらやる気がなくなるという負のスパイラルに陥り続けていました。
しかしやめるのはなんだかよくないことのように思えたし、ピアノ自体は好きだったので続けていました。
高校時代、最終的に大学受験にのめり込んだのでそのタイミングで徐々にレッスンの頻度を落とし、最終的にはそこでレッスン通いをやめてしまいました。
しかし、今年の発表会のMCに私を起用してくださったので喜んで引き受けることに。
すると今までは「自分の発表」に対する不安や緊張によって見えていなかったものが次々に見えてきたのです。(当時も今もとても神経質なところがあって、すぐ緊張したり考えすぎたりしてしまいます)
今回は本当に司会だけをやればよかったのでとても気持ちが楽でした。
それゆえとても余裕があって、他の人たちの様子や雰囲気にも気を配ることができ、そして私の「不安、緊張」とは別のところにある気持ちを自分自身で探っていくということもひとつ、できたように思います。
まず私が思ったことは、「自分」が過度に不安視している物事ほど他の人たちがその物事に対して持っている見方との乖離が大きいということ。
これは絶対的に不安視すべき物事というのが死を除いて基本的にはあまりないと言えるからであると思います。
日常の中に社会生活の一部として現れる物事など大抵はそういう程度のものだというわけです。
しかし、あのステージに立つということを考えただけで、突然自分が世界の方向転換を司るような存在であるような気分になるんですよね(笑)
それゆえ、少しでも間違えたり止まってしまったりすると本当に恐ろしい心地がして、今にも死んでしまいそうな緊張感に襲われる。
しかし、司会者の私をはじめとしたどの人も別に何も気にしていないのです。
止まっちゃった子いたよね?誰だっけ?というレベルです。また、思ったよりも皆失敗していて、むしろ失敗しない人の方がいないほどです。
しかし私は当時、皆はうまくできていて自分はできていないと思い込んでいたし、私が「できる人間なのか」あるいは否かというところをその場だけで判断されることが本当に怖かった。
その場で失敗したら私の価値が証明できない。そういう不安です。当時はもちろん言語化できていなかったけれど今思うとそういうことなのだと思うのです。
私はこのことを今日発見できたので、今後少しだけ楽に生きられるような気がします。
もう一つは、ピアノの先生があまりにも優しく、豊かな人格の持ち主であったということです。
以前から漠然と良い人で且つ穏やかな方だなとは思っていたのですが、なんだか格別なのです。老害とはまるで逆サイドにいるような方です。
「若い人が先に(飲み物を)選びなさい」とか、失敗しても何も言わないでいてくれるところなど、最高に大人で余裕があるのです。
きっとそれは彼女が自分の幸せ、適正、そういうものを手に入れ、好きなことをして生きているから生まれるものなのでしょう。
彼女は自分の幸福を掴み取り、そしてそこから生まれた余裕で人を幸せにしているのです。なんて素敵な人なんだろう。
私もそんな風に、好きなように生きて豊かな人格を手に入れたいと思いました。
そのような感じで新たな視点を持つきっかけになったこの発表会でした。
次はまたしばらく後になってしまうけれど、また呼んでいただけたらいいなあ。
それでは、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
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