あるとき、あるひとに言われました。
「人間の構成要素は原子です。だから感情もその原子の運動によって出てきた『反応』にすぎない。」
私は絶望しました。知っているけれど、想像はつくけれど。私はそんなことを信じてしまったら死んでしまうしかなくなるよ……。
私は、私を大事にするあまり、私の素質に絶望するのです。不思議な話ですが真実なのです。
私は基本的には心身二元論が自分に適用されているつもりで生きていたいのです。心身二元論とは簡単にいえば、身体と精神の部分が別々であるという考え方です。
あくまで形而上的な考え方ではありますが、素敵な考え方です。
そうすれば、いくら肉体が原子でできていようとも確固たる「私」は掴みきれない何かによって保証されていることになる。
つまり「私」というものには制限がなく、誰も私を本当の意味で動かすことはできないということになる。
それは「私」を貫き通す上で非常に重要な見方です。
だから私は心理学に関してもその学問のあり方自体に疑問を持っており、好ましく思えないのです。
「私」が何かの箱に分類されていってしまうようで。システムの中に取り込まれてしまうようで。
私に「人間の構成要素は原子です。だから感情もその原子の運動によって出てきた『反応』にすぎない。」と言ったその人は、その考え方が論理的に正しいものであるから信じているというような言い方をしていました。
そして私の信じる心身二元論は論理的に考えて正しくないからという理由で否定されました。
矛盾しているからなんだっていうのでしょう。
論理的に正しくないことがそんなの問題になるのだろうか。
自分という存在などあくまで自分という根源が生み出す信心に基づくものなのであって、それがたとえ「論理」であっても自分の存在論も信心も否定されうるものではないのです。
難しいな。人間って……。
神の証明のために作られた論理に塗り固められた数学も、決してその役割は遂げられないし、人というものへの理解のために存在し続ける哲学も心理学もまるで頓珍漢。
何もかも多分自分という存在には関係がなくて、ただ私の存在の裏付けは私の精神にしかわからないものなのだろうな。
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