近所のおじさんが私の母にゴーヤをくれた。母はゴーヤなど食べない人間なので仕方なく私がもらうことにしました。
母は恐ろしく保守的なのです。何に関してもです。同じものをローテーションして食べます。新しいものを勧めても食べません。訝しんでしまいには「何か宗教にでも入っているのではないか」と言ってくるほどです。
本当に変わった人だと思う……。
そんな人がゴーヤを食べるなんて思えません。家でも当然出てきたことがないのですが、ゴーヤが腐ってしまってもいけないので自分で作ってみることにしました。
しかし不思議なものです。ゴーヤを食べようと思うとゴーヤチャンプルしかその調理法が思いつかないのです。
付け合わせにするなどできるのかもしれませんがそれにしてはもらったゴーヤが大き過ぎて数回に分けて食べなくてはならないし、おかずにもならない。おまけにゴーヤは苦いので結局ゴーヤチャンプルの材料である豆腐や卵と相性が良いのです。
つまり何やかやと考えていると結局ゴーヤチャンプルが最適であるというところに思考は落ち着きます。
そうか。ゴーヤをもらった人間はゴーヤチャンプルをどこかのタイミングで作るという運命を背負わされているのだ。
それは深刻なことだった。これほどにも活用法のない食材もなかなかお目にかかれません。しかし私はゴーヤチャンプルを作ったことなどない。それでも、ゴーヤを受け取った過去の私は「ゴーヤチャンプルをつくる運命」を背負ったのだ。
私は木綿豆腐と卵を買って(あえて肉は買わなかった)調理をすることに決めました。
ボウルに刻んだゴーヤを入れ塩を振り揉みます。そして三十秒お湯に通し、苦味をとった後、ごま油を入れた香り高いフライパンに彼らを放り込む。
そして大きめにカットした木綿豆腐を入れて多少崩れさせながら混ぜ、焼き色がついたら溶き卵に塩を加えたものを回し入れます。
そして調理酒やら塩や味の素、あるいは醤油などを計りもせずに入れ、完成です。
調べつつ、アレンジしつつ作ったゴーヤチャンプルは思ったより美味しくいただけました。
運命を受け入れ遂行し、またそこになにかしかの充実感さえ感じられたことはきっと素敵なことだった。
少なからず色々なものに導かれている気はする。気にしてみたら自分の行動や生のルーツさえも見えてくるかもしれない、なんて思いました。
ゴーヤも私のルーツの一つだったのかもしれない。
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