ファミコンゲームは語る

雑記

少々ポケモンが好きなS氏(このブログサイトの運営を手伝ってくれている方)がニンテンドーSwitchオンラインにひと月前くらいに加入したのですが、そこに私もファミリープランで入れてもらっております。

そして今回。先日のコンクールに出す作品が仕上がった打ち上げも兼ねて二人でお菓子を片手にゲームすることに。

オンライン加入者のみが無料でプレイすることのできるファミコンソフトのマリオで遊ぶことにしました。

私は初め、わざわざグラフィックの粗いゲームをするのもどうなのだろうと思っていたのですが、これが何か作品が書けてしまいそうなくらい情緒的。

世界というものが完結しているのです。

マリオはおばけが出ようとボスが出ようと表情を変えず、クリボーはただ土管から出てきて谷の隙間に落ちていく。一切声も上げず、足の関節一本不規則に曲げたりはしない。

空には雲が一定の速度で流れ、直立不動の樹木が並ぶだけ。

私は感動しました。このようなものがここにあるから、ゲームの間だけは誰も下手なことは考えなくて良かったのだ。そこには資本主義社会もない。親兄弟もいない。恋人もいなければ上司もいない。ペットもいないし片付いていない部屋だってない。没落と言っても可愛らしい平面的な谷に落ちていくだけだ。

なんて平和なんだろう。

もう何も考える必要がないのだ。と思う。そして夜は深まり、それでもなおマリオは元気に飛び回る。

「死ぬ」「落ちる」こうした言葉がライトなものとして存在する世界。無闇にストーリーはなく、ただ永遠に単純世界。

こうしたゲームはクラシックでかつ人を夢中にさせるような輝きがあります。うまく言えないけれど、今この年齢、この世界線でファミコンソフトをプレイできたことは私にとって大きなプラスだったように思います。

いつかもっと素敵な言葉で、的確な表現で、この感動を伝えられたら良いと思います。

それでは、もう少しやり込んでこようかな。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました