何もかもが片付かない。
勉強はうまくできず、言葉はうまく乗らない。そうしているうちに使える僅かな時間は消滅し、またどこからともなく私をマリオネットにしようとする何かが降りかかる。
それは組織である。組織というのはいくつもいくつもマリオネットを持っていて、それらを使ったり戻したりしながら弄ぶわけだ。
そうして無差別に適当な自由時間が与えられるものだから、うまくそれを使いこなせないこともある。
そんなふうにして生きることに意味があるのか。実際ないかもしれない。でもそれは言っても仕方のないことだから、本当に辞めたくなった時によく考えてそれから辞めることにしよう。
とにかく今はその時ではないし、その時は来ない可能性も高い。
まだ何者でもないから、終われないのだ。
まったく生きることは厄介だと思う。納得できるか諦めるか決断しないと終わることもできない。なぜなら苦しみがつきまとうし、自分が意思を持つ以前に色々なものを必然的に手に入れてしまうからだ。
それを手放せなくなる。つまり執着。
それは痛く苦しいことだと思う。それをなくすその最後の諦めができたものに、生からの本当の開放があるとはまさに道理に沿ったことだと思える。
私は大学で仏教を学んでいるためそういう思想を目にし、考察する機会は多い。身近に、信仰を抜きにして仏教を見つめるからこそやはり感じるものがある。
生の苦しみ、あるいは執着。これを離れること。
これは私の日常においてすら求められていることで、それを自覚するたび私はその仏教の救済を理解していながら自分の意思を通し、やはり今の私をもって素敵な文章を書きたいと願っていることに気がつく。
すると私は今の意志の弱さを感じて、熱いコーヒーを氷の上に注ぎひとくち啜る。
そうして目覚めた私はまた文章を書き始め、時間が来るとマリオネットになり、そしてその不自由を嫌悪し釈迦を思い出す。
そして私を強く持とうと決意しコーヒーを啜るのだ。
私がマリオネットをやめられたら良いと切に思う。しかしそれにはまだ意志が弱いのだ。実際マリオネットになることが私の意志を支えている一部であるともいえる。
それは修行なのだ。果てのない修行。
今日もまた多くのものごとを処理し、創造しよう。
「怠ることなく精進せよ」
釈迦は言った。その通りだと、実にその通りであると、切に思う。
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