春の香りについての考察

雑記

私が今年の春をはじめに予感したのは、一月三十一日のことでした。少し精神の調子が悪くて、暗くどうしようもない気分で、まだ寒い街を歩いていたとき、春の香りがふと光に乗せられて私のところに届いたように思いました。

遠く、でも近く、春がぼうっと薄笑いで見ているような感じがしました。そういう距離感ですっと入り込んでくるのが、春という季節だと私は思うのです。

春の空気は、なんだかどの季節とも違って、人の根源的なものあるいは前提の部分に語りかけてくるような不思議な力があるような気がします。

春の風を浴びると清々しくて、いつまでも歩いていたいと思うのだけれど、それと同時に還るべきところに還っていくものを、自分の中にも大切な何かにも見てしまうような気がして寂しくなるのです。

そんな春という季節が覆う空間の観念と現実のバランスは、そのまま人間の精神と肉体のバランスの比に似ているのではないかなんて考えました。

だからなんだか春には死の気配があるような、消滅の影が張り付いているような、そんな気がします。

生命の循環も春という季節のなかに存在しますが、だからこそ自分という世界にしか生きていない我々個人個人と、人は循環の中に存在しているに過ぎないという前提との矛盾を思い出すから、どこかこの春の陽光が寂しいのかもしれません。

ふと昼間に外に出たら、実際的な問題はふと陽だまりの中に溶けていきました。実際的なことなど幻影に過ぎませんでした。

何かと比べたりそれに絶望したとしてもそんなものは少しの差異にしか過ぎない気がして、そんなことより、とふと立ち止まる。

たばこに火をつけて、ふうと煙を吐くとその煙はやけに広がって春の一部になっていきました。

私は春を享受するひとつの存在であったわけではなく、私は春の一部としての存在でした。

私自身もまた春になっていっているのだと思うと、不思議と色々なことがこわくなくなりました。

そんなことを思ってもうひとくちたばこを吸うと、ふとビールが飲みたくなった。

生きていてよかったかもしれないと、少しだけ思えました。ビールでも何でも、何かをこの世界に求めている自分に気づくことができて少し嬉しかったのです。

風に吹かれたら、少し伸びた髪の毛が揺れて靡いた。それが心地よくて、どこか遠く、遠くのほうへ行ってしまいたくなる。

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