愛猫ねこび

プロフィール

実家にいる猫たち四匹の一番上の男の子、ねこび。私が初めて飼った猫。小さい時から成人した今まで私をみてくれている大事な兄弟のような存在。

 彼の様子がここ二週間くらいで突然変化しました。数年前から腎臓病を患ってはいたのですが、それとは違う変化です。

体は痩せほそり、ほとんど動くこともなく、毛は少しバサバサに。そしてなんといってもやはりみに纏う雰囲気が変化しました。

本当に瀬梅井は光のようなものなのかもしれなくて、非常に非科学的で観念的なものなのかもしれない、と思わざるをえませんでした。本当に彼のまとう生気というか雰囲気というか、そういうものの変化が見て取れるのです。

私はそれで不意に不安になり、獣医さんに電話をかけて病院に行ってみました。

すると、獣医さんは、もうこれはみただけでわかるけれど老衰だから、様子を見続けるしかありません。食べたくないなら食べなくていいし、薬もそんなに無理して飲ませなくて良い、と言いました。

私はその、頑張らなくて良いし好きにさせてあげよう、という言葉がどうにも悲しく思えて泣いてしまいました。

しかも多分、ねこびもそのことはわかって受け入れている感じがするのです。だから下手な延命治療は良くないような気がして、ひとまずこのまま様子を見ることになりました。

自分の死期のことだけでなく、私たちの気持ちや自分の気持ちのことを多分この子はとてもよくわかっているような気がするのです。

だからこそ私も今は悲しい気持ちを抑えて毎日ゆっくりねこびのそばで過ごし、見守ろうと思いました。

しかし多分本質的には生と死は別々の観念なのではなく、多分どちらでも良いことなのではないかと思うのです。

死んでしまったからと言って何か根幹の部分が変わるわけではない。○○が生きている、あるいは死んでいる、というその主語は消えないのです。「死んでしまったんだ」何が?となるから。つまり存在の観念が消えてしまうことはない。

しかし我々はもはや第六感的な、観念的な部分でそのことに寂しさを覚えている。なんとなくそんな気がするのです。

まだ時間は残されているようですので、ゆっくりと整理をつけていこうと思います。

ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

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