どうして生まれたのだろう

雑記

 目的論的考え方などバカらしい。これは一般論だし、真実なのかもしれない。

どうして生まれたもなにもなくて、それはただ流れであって必然であって偶然である。そういうことでしか説明できないのだ、これもまた真実なのかもしれない。

しかし、もしそうなら、本当にそうなら、私はこの世の中なりここに至った経緯をある側面では恨んでしまうかもしれない。

愛猫に今まさにお迎えが来ようとしている。そこで私はいろいろ考えているわけです。

そもそもどうしてお迎えなどというものが来るのか。次の世代はどうして生まれてくるのだろう。そのために故人が死んで、次の世代が一世を風靡するがまた死んで。負の連鎖でしかない。

人が今、何か食べるとする。食べて、それを含んだ状態で作業や睡眠をする。そしてそれを排出してまた食べる。

意味がわからない。

意識はシャボン玉みたいに実体がないし触れられないし、いろんな色に見えておまけにすぐに無くなったり吸収されたりする。

その割になかなか厄介で、どうせ消えてしまう他の生命体を愛したり憎んだり、それらとの時間を楽しんだり消滅を悶えるくらい悲しんだりする。

それらを扱うことは私たちにはあまりに難しい。

何かの目的があるなら、まだ、弄ばれているだとか何かの方向に動かしたいだとかいろいろな言い訳が思いつくけれど、もし何もないならあまりに虚しい。

だから私は産んでくれてありがとうだとか、生まれてきたことに感謝をとか、簡単に言えない。生まれることを前提にするなら、五体満足に生まれることができたことには感謝すべきだけれど。

いつかこの問題を解消できる日が来れば、私はその時初めて本当に自由になれるのかもしれない。

私は小説を書いているときに、書き上がったものを見て自分を知ることが結構あるけれど、ずっとずっと書き続ければいつか、自分がどうして生まれたのかという問いを解消するかあるいは、ただ必然的に生きていることを受け入れられる日が来るのかもしれませんね。

また原稿を書くことにします。

ちなみに、あなたはこういうことに関してどう考えていますか?

もしよければTwitterのコメ欄にでも何か書いてみてください。必ず返信します。

ここまでお付き合いいただきありがとうございました( ´ ▽ ` )

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