思えば昔から、意味のないものが好きだった。

雑記

この間散歩をしながら、ひたすら、私とは何なのかということについて考えていました。考えてみると意外にもそれは非常に難儀なことで、私の要素として上がるいくつかのことは、どれをとってもどこまでいっても、結局その多くは代替可能なのでした。

しかし、ひとつ、これはというものがありました。これは病的なこだわりで、同じタイプの人間がいたとしても、その程度は負けないに違いないというものをみつけたのです。

それがタイトルにもあります、意味のないものが好きなのだ、ということでした。

れはそ要するにガラクタでありますが、ガラクタの中にもまた選別基準があるのです。おそらくそれは、「なんの機能も持たないこと」。

しかし今までそれは自分の中でうまく言語化できない感覚で、しかもなんだか飲み込まなくてはいけないような、そういう感覚に思えていました。

それゆえ、誰にも言わず黙っていました。

しかしその感覚は本当に物心ついたその時からあったのです。

たとえば、ぬいぐるみ。キャラクターのような、物語や設定、名前が既につけられているものよりはなんとなく無名のただのくまやうさぎが好きで、好んで欲しがっていました。

また、それらはキーホルダーやストラップになっていてはいけませんでした。頭の上に糸がつけられていて、そこにチェーンが付いているのがなんとも残念で仕方ないのです。

その頭についた紐を見ると、なんとも言えず、完全に私と共存してくれない存在なように思えて悲しかったのです。なぜならもうそのぬいぐるみは社会によって「キーホルダー」という役割を与えられて生まれてきており、たとえ所有者である私がその役割を与えなかったとしても、その因縁は頭の上の紐に残り続けるわけです。

私はそれが嫌いでした。そのため時々頭の上の紐をちょん切ってしまうことさえありました。しかしそれをすると、今度は私がそのぬいぐるみの可能性を狭めたような気分になって、それはそれで悲しくなるのでした。

そんな妙な感覚にいつも何かの選定を委ね、そしてその感覚にいつも苦しめられていました。でもその感覚に造られた自分が良い文章を書こうとしているわけです。

意味のないものに意味を与えなかったり、与えたりしながら生きていける人生に、意味があるようでないような文章を添えられたら素敵だろうなあ。

これからも私は意味のないものや意味のなさそうなものを愛し続けます。なんだか上手く言えないけれど、わかってくれる人がいたら嬉しいです。

それでは今回も、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

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