「風の歌を聴け」そして「さようなら、ギャングたち」を読み、それぞれの著者と学生運動について考える。

村上春樹

 とても大それたテーマで、しかも私は専門家ではなく、文学部のいち学生ですからあまり細かいことや革新的なことを言えるかはわかりませんが、それぞれを読んでみた時に感じたことを観念的に書いてみたいと思います。

そのためにはこの二冊の本のおおよそのデータが必要であると思うので書いておこうと思います。

「風の歌を聴け」

・村上春樹(1949年生まれ)における処女作であり、第22回群像新人賞を受賞している。

・1979年4月に発表された

「さようなら、ギャングたち」

・高橋源一郎(1951年生まれ)による作品

第4回群像新人長編小説賞にて優秀賞を受賞。

・1982年10月に発行

 これを見ていただくとわかるように、この二つの作品はほとんど同年代に出されています。そして著者もほぼ同年代なのです。

そしてこの二人の人生に大きく関わった出来事は「学生運動」です。これに対する二人の立場の違いが二人の小説のあり方に差をつけています。

村上春樹氏による「風の歌を聴け」の雰囲気

 雰囲気という話をするなら非常に軽いタッチで美しい青春を描いたような作品で、芸術としての清々しさと洒落た雰囲気を持ち合わせているように感じられます。

 作中「僕」という人物が学生運動の最中に歯を叩き折られたエピソードを話しますが「僕」はそれに対して逆上するでもなくただ淡々とした口調で遠い場所の話をするように話すだけでした。

「僕」あるいは春樹氏にとっては学生運動をしていることを傍観しているにすぎず、そこからは一歩離れて自分の中で青春をあゆみ、そこで悩みながらも芸術を追求していくようなそういうイメージが感じ取れるわけです。

ですからその分、社会への風刺が少々入りつつも、全体としては豊かさが滲み出る綺麗な作品に仕上がっているのです。

高橋源一郎氏による「さようなら、ギャングたち」の雰囲気

 雰囲気を一言で言うとすれば、それは絶望の具現化であるとしか言いようがないのだと思います。

 学生運動とは、とか、自分の意見はこういうことなのだ、などといった気力のある人が力をいっぱいにこめて言うような主張ではなく、完全に絶望した人の書く弱々しい抗いと重すぎる完全な救いのない悲しみが渦巻くような言葉たちの集積なのです。

 余裕のない中で、(もちろん観念的な意味で)閉じ込められたような思考の中で何度も何度も掘り続けてやっと捻出した感情とそれを表現するための便宜的な意味での言葉が綴られた本のように私には思えました。

美しさはもちろん備わっていますがその中に明らかな絶望がこびりついているわけです。

二冊の本を比べて。

 同じ時代を生きた二人の本がこれほどまでに違うこと、そして互いが完全に別のベクトルに振り切れており、凄まじい魅力を発していることに驚愕します。

生涯大切にしていきたい「風の歌を聴け」。そしてある種尊敬の念さえ抱く「さようなら、ギャングたち」。この二冊の本が同じ時代に生まれたことが私の中で一大事であり、そこから受けた印象を留めておきたくてこのような記事にしてみました。

これからもこの二冊は何度も何度も読むことになるだろうと思うので、その度色々な見方ができたなら、そして彼らの本のような衝撃的な作品を私自身が書くことができたなら、それは素敵なことであるだろうと感じます。

おそらくそのうちに「さようなら、ギャングたち」の感想や私的解釈の記事を出せると思います。

ちなみに「風の歌を聴け」については感想解釈と合わせて他の記事も書いてあるので下に貼っておきます♪( ´▽`)

(とてもこの本が好きなのです……。)

それでは今回はこんなところで。ここまでお付き合いいただきありがとうございました!

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