愛猫ねこびが亡くなってしまいました。まるで、私と母の目を避けるようにして私と母が眠ろうとそれぞれ床についたときに亡くなったようです。起きたときにはかたく、つめたくなっていました。
火葬をして、簡易的ではあるけれど仏壇を作り、使っていた布団(体液で汚れていた)を洗うと、なんだかひとつひとつ整理がついてきました。
そして色々なことを振り返ったり考えたりして、私は強くなろうと思った。
振り返ってみると、ねこびは母にべったりで私とはあまり固有の思い出はないのだけれど、それ故に逆に生活に溶け込みすぎていて、あまりに何気なく、近くにいたように思えるのです。
それに私は彼がいたから一人っ子でも寂しくなかった。けれどゆっくり考えたいときは静かに横にいてくれた。
ねこびが何気なくそばにいるという形で私を育ててくれたのだと思うのです。五歳から二十歳になった今まで、ずっと、そうやって。
私は今まで、人は人と人のエゴによって生まれただけの存在だ、と心の根底で思っていたけれど今私がねこびに育てられていたということを思うと、私が私のことをとても尊く思えたのです。
私は自分という存在を、自分という要素によるところ以外において価値があると思ったことはあまりありませんでした。
でも、その育った過程に彼がいたことで、それは尊かったのだとわかったのです。
私は思いました。
せっかくねこびが育ててくれたから、私は自分という存在にちゃんと意味をつけよう。これから先は、私自身ががその尊さを担保すべきなんだ。
せっかくねこびが育ててくれたから、素敵な強い人になろう。
そしていつか、この気持ちを、悲しみを、まっすぐに捉えて素敵な言葉に変えられるようになろう。
そんなふうに私は思いました。
私はそんな決意を胸に、これからを生きようと思います。
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