カラオケとの関わり方。

散文

 カラオケ。それはビリヤードやチェスやダーツのようないわゆるクラシックな趣はないかもしれないけれど、そういうふうに見られても良いものなのではないかとも思う。

それは出会いの切り口でもあるし、言葉をあまり発さずにコミュニケーションをとるツールでもある。

何かの糸口になったり、ある時ふと行きたくなるものでもある。

ストレス解消の手助けのようにも見えて、やりようによっては必ずしもその役割を果たしてくれないこともある。

イントロの始まる前の僅かな会話がロマンチックに途切れることもある。それはある種文学的であるし、どこか深くそして愛を伴う日常にもなる。

最近はおおやけに「カラオケに行く」などと言える状況ではなくなってしまったけれど、その前はよくカラオケに行きました。

大声を出してストレス発散というよりはどちらかというと(自分の主観で)いかにうまく歌えるかということを意識する形です。

うまく、綺麗に、音程を外さず、かつ楽しめる程度の高音が入った曲を選ぶ。例えばaikoさんの「カブトムシ」や「Kiss Hug」、最近のアーティストならあいみょんさんの「さよならの今日に」などといったところでしょうか。

出だしを綺麗に歌うことが何よりも重要なことであります。その後息継ぎのタイミングなどを、何度も歌うことによって習得したやり方で遂行していく、いわば作業です。

だから歌って開放的な気分になるというのは二の次です。

どこで裏声を使うか、ブレスをするかまで調整され体に身についた、決まった歌をうまいこと歌っていくという作業なのです。

それは私に心の安定をもたらしますし、芸術的な感覚を思い出させます。

そういう営みでもあるからこそ、大体大人数で行くことはありません。一人、あるいは二人です。

二人で行っても互いにあまり干渉せず、それぞれの歌を聞き、次の音楽を入れます。

しかしそうすべきなのかもしれません。誰かに合わせたり、なかなか回ってこない自分の番までの間無理にマラカスを振ったりタンバリンを叩いたり。

そんなことは役に立っているようで立っていないのかもしれません。そしてもしそれが徒労なら、いっそのこと誰かに干渉するべきではない。そんな風にも思います。

しかしこれはあくまで私の在り方です。私がただこういう風にしたいと思っているだけです。

実際どちらが文学的でどちらが合理的なのかもわからない。私は独立性と合理性を好み過ぎているのかもしれない。

でもそれが私なのです。カラオケに行ったら一人や二人でひっそり「作業」に勤しむのが好きなのです。

そして私はコロナも終息の兆しを見せ始めそして私もカラオケに出向き、果てのない作業をすることを夢見る。

そして家でドリップコーヒーを飲むけれど、まだ少しだけまどろみの中にいる。

何か書けそうな気がする。そしてパソコンを開く。

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