初め、多分それこそ私が今より幾分正常(正常とはなんだろう?わからないけれどとにかくゆくてあまたで心身ともに行き詰まっていなかったときのこととしておく)だった時にこれを大学の講義か何かで聞きました。
その時ははっきり言ってよく意味が分かりませんでした。当時のインドの社会の中でそれをいうには、あまりにもヴァルナ制が強かったであろうと思うし、クシャトリヤとして生まれた釈迦にもそのことはよくわかっていたはずだと思ったからです。
しかしそれから徐々に、本当に「絶望」ということや「どうにもならなさ」やその苦しさを時間をかけて理解していくうちに、その意味が分かりかけてきました。
その時釈迦は、「母は子供を産んだことによってでなくその行為によって母となるのだ」とかではなく当時の社会のバランスの中であえて「バラモン」と言わなければならなかったのでしょう。
それほど自由意志に基づく「行為」が重要だから。
思えば私は、ここ二、三年の中で随分一気に「絶望」ということをわかりました。少し前まではそれを知っている自分が好きでもあったけれど、今となってはどうしたらいいかわからないのです。
その絶望が現実的に私に影響を及ぼそうとしている。でも、その絶望は決して消し去ってしまってはいけないのだろうと、創作を続け類上は思ってしまう。
仕方ないことです、どうにか創作に生かさねば。
ところで近頃釈迦の言葉について考えていたのには理由があって。
私は地元のバーでアルバイトをしているのですが、そこの友達とのことです。そこの友達は、「大学にちゃんと通って単位を取っている」そして「普通である」という条件を抜きに関わってくれる大事な人たちです。
けれどちょっとしたことがあって(私がその人たちのコミュニティーに後から入った身だからかもしれませんが)、拗れてしまいそうなのです。私はその状況の中で自分が実はこんなにしっかりとした関わりを持てる「友達」を欲していたのか、と気がつき、同時に、同じ種類だと思っていた彼らは実はずっと遠くにいたのだと気がつきました。
私は彼らにあるものを持っておらず、彼らよりずっとあらゆる物事へのキャパシティが小さく弱いということにも気がつきました。
そんなことをぐるぐると考えていると、あの釈迦の言葉を思い出し、「たしかに」と妙に納得してしまったのでした。
私は弱い人間としての行為をするから弱い人間になり、強いつながりを持てない人間としての行為をするから誰とも恒常的なつながりを気づけない。
なんだか納得がいったのです。だからと言って突然何ができるかもわからないのですが。でも、多分自分のことがここまで肯定的に見られないのは初めてかもしれません。
ちょっとゆっくり考えます。文章にしてしまったら少しだけすっきりしました。
全部、最高の文章を書くための栄養分になると思うと、生きていけそう。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
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