どうしてこんな髪型にしたのやら

雑記

 こんにちは。実は最近、(と言っても12月ごろ)髪の毛をなかなか思い切りよくばっさりと切って、おまけにインナーにレッドカラーを入れました。

その写真がこちらになります。

変化したのは髪型だけではありません。ふんわりとした色味の服から黒や原色といったパキッとした派手な色合いの服を着るようになり、そしてここには載せられませんが、メイクもどんどん濃くなっていきます。

この間、友人とかつての見た目と今の見た目の話をしており、「前の茶髪ロングで薄めの化粧の方が、なぜだかわからないけど強い女って感じがした」と言われました。

本来茶髪ロングの清楚系などというのはどこにでもいて、印象という意味では強くないとは思うのですが、逆にそれゆえに「自分がどうあるべきか、どうありたいか」ということに意外と無頓着であり、「自分は普通にしていたら自分なのだから、そこをわかってくれない人とは関わらない」というような強さがあるということであったようです。

そう言われると妙にその部分に納得してしまい、今までの自分、そして今の自分を比較せざるを得ませんでした。

実際に日増しに気が弱くなる私、そしていつ頃からか、気がついたらメイクがパッキっと濃くなっている私。そして見た目は好みに近いものになれたけれど、毎朝鏡を見て「今日も、誰からの干渉も考慮に入れない私の好きな髪型で、自分の意思に基づいて生きてる!」と自覚しながらでは生きているような気がしてしまったのです。

見ないようにしていたものに目を向けてしまったという感覚です。

この今の髪型は、私の弱さと繊細さの象徴であって、しかしだからと言っておそらく今までの髪型が今の自分に強さを与えるかといったらそうでないこともなんとなくわかってはいるのです。

それには自分が弱くなりすぎて、(村上春樹的な言葉運びをするなら)自己療法へのささやかな試みを続けるより他ないような気もしているのです。

それに、自分の頭で全ての物事に完璧に折り合いをつけられるようになったらその時にはもう何も書けなくなっているような気がするのです。(もっとも、今自分が何か意義のある文章を書けているのかわからないけれど)

自分のために文章を書くのか、文章を書くために生きるのか。多分後者の方がわかりやすい気がするんですよね。「自分のため」といっても、その「自分」にいろいろなものを与えた結果として何を得たいのか、その「自分」が一番わかっていないからです。

でも文章を書くために生きるなら、いつまでもその目的は揺らぐことなくそこに存在してくれているし、しかも「文章」というものは一見して形を変えないから安定感があるのです。であるからして、このマインドに持っていくのは一種の生存戦略でもあると思えます。

しかし、その「文章を書くために生きる」上では、自分の状態をどうコントロールするかが重要になってくるわけです。今回のこの髪型と、そして徐々に弱くなる自分を(消極的にではあるけれど)肯定し続けることは、その試みの一端であるとこの文章を書きながら再認識しました。(笑)

こんなふうにぼんやりとあれこれ考える時間を人生の中に常に設けられたら素敵ですよね。

そんなこんなで今日もこの赤い髪で街へ繰り出します。

毎度のことながら、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

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