村上春樹氏の短編集の一つ、「カンガルー日和」。これは私が村上春樹作品との出会いの一つとも言える作品でした。
高校時代にお世話になった、不思議な雰囲気漂う独身の女性の先生がある時補講にてこの本の朗読を始めたのです。
彼女は教壇に立っていいました。
「今日は、私の大好きな村上春樹の本の中から、この短編を皆さんに聞かせたいと思います。」
当時受験のことしか考えておらず、文化的な営みに飢えていた私は大変興味を示しました。
ふむ。
他の生徒は寝るか内職。ひどい有様でした。
「それでは始めます。4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて。」
……。
私は衝撃を覚えました。話自体はというと素敵でロマンチックだけれど、どこかひねりや何やらはなく、とても素直でストレートそして単純なものだと思いました。
しかし、「こういうものを書きものとして出していくことは世の中にとって受け入れられることなのか」という類の衝撃を受けたのです。
聞いていてとても軽快で、それこそピアノの楽曲のように楽しそうに優雅に言葉が流れのようなものに従って仰々しさを一切孕まず連ねられていく言葉たち。
頭をすっとその世界に入れ込めばぽんと浮かんでくるような言葉を実に純粋なセンスによって並べ組み替え、リズムを作っていくように思えました。
「あるいは」の使い方。それひとつにもセンスがにじむ。綺麗な文章だと感じたのです。
それに話の展開と心情の変化、その胸が熱くなるような芸術性。この世界に身を投じることが一種の芸術との結合のようにすら思う、そんな読書(この時は朗読を聞いたのだが〕。
そんな体験は初めてだったのです。
私はその後村上氏に興味を持ち、初めて「ノルウェイの森」を拝読するとたちまち駆け出しのハルキストとなり始めたというわけですが、そもそものルーツはこの作品の朗読を聞いたことにあったというわけなのです。
この短さで、この言葉の難易度で、どうしてこんなに胸を振るわせるものが書けるのか。
私も本を読んでここまで育ってきました。本を読み続けなければならないとも思います。しかし、もしできることなら、自分流の作品が書きたい。そういう夢も持っています。
しかしよく、「人格というものは自分の読んだ本によって作られる」そう言いますよね。
もし本当にそうなら、この柔軟に知識を入れこめる若いうちに読む本は村上春樹氏のものが良いと思いました。
彼の模倣品を作りたいわけではありません。ただ、私を作る一つの要素として素敵だと感じたのです。そしてそれを享受することによって高まり姿を現す私の中に宿る感性を感じられる機会を彼の作品がくれるなら、私はそれで幸福を感じ、存在意義と自己肯定感を実感することができます。
それは幸福なことですよね。
私はこの「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」を読むと、何度でも麗しいまでの充実感を手にします。
私もそんな要素を含む作品が書けますように。
コメント