ダンス・ダンス・ダンスの感想。 ユミヨシさん、朝だ。

村上春樹

 三部作の「羊をめぐる冒険」の感想解釈が終わっていないのですが、ただいま不本意ながら貸し出し中のため、先にこちらの感想を書かせていただくことをご了承ください。

「ダンス・ダンス・ダンス」とは

村上春樹氏の著作の一つで長編小説であり、鼠三部作(青春三部作や初期三部作ともいう〕の後日談的に出た作品でもあります。

三部作の主人公「僕」がいろいろなものごとを通じて日々を生き、多くの物事に落とし前をつけていく、そういう作品であるように思います。

「ダンス・ダンス・ダンス」感想

 私はこの作品はそれまでに何もかもを失った「僕」が本当に重要なものを発見し、整理してそれをつなげるための整理整頓の回だと思っています。

実際ここまですっきりとしたラストの形をとっていることに大変驚きましたし、これには何か大きな意味があったのかもしれないと思うのです。

つまり、バッドエンドという形を取らずに出口のある作品を完成させたと言っても良いでしょう。

しかしその間には実にいろいろなことがある。不思議な部屋や羊男など少々超常的な出来事や機器の存在。

だけど最後の最後には「ユミヨシさん」という単に羊男がつなげたであろう「ただの女性」が僕と結びつくことになる。それも超常的な出来事からいろいろな形でのセックスと死、そういうあらゆるものを介して「普通」とつながる「僕」。

これは鼠の文章とも違う。彼の作品は死もセックスもない。それは出口のない小説なのだろうと、私は「鼠三部作感想シリーズ」にて書いたはずです。

つまり、今まで築き上げてきたキキとの関係、そこに関わった気持ち、五反田くん、あるいは鼠。そういうものに悲しいバッドエンドにも似たものを添えてまわったのだともいえます。この作品を通して、数えきれないバッドエンドをいくつもいくつも結んで歩いたのです。

そして、その数々の喪失が導いた出口。その出口から出た先には、真っ当な人間(ユミヨシさん)そして真っ当な世界、そして羊男のいない世界が広がっていたということなのだろうと思います。

「風の歌を聴け」の無鉄砲で艶やかで、鮮やかで、そしてロマンチックな日々、そういう世界の見え方が徐々に変化していき、この「ダンス・ダンス・ダンス」では非常に現実的で落ち着いた見え方に変化していった様子が見受けられました。

「羊をめぐる冒険」それから「ダンス・ダンス・ダンス」では現実的になりつつある「僕」が無理に何かに導かれて不思議なものに巻き込まれ、そしていろいろなものを失い、そして年相応の現実に戻っていくという感じが見て取れます。

要は、「僕」が青春期に思っていたこと、吐いた言葉、見えた景色、抱いた感覚、そういうものを(鼠との時間の減少にもよるのかもしれないが)失っていったと思えるのです。そして失っていった先でそのようなことになった。

もっと言えば羊男が采配してつなげることすら難しくなってしまった。

だから「僕」は「風の歌を聴け」の頃のような感覚をもちつづけることでのみ、この世界とそして「普通」と繋がれるのだということなのではないかと思ったわけです。

私はなんとなくメッセージとまではいかずとも、そのような流れをこの作品に作ったのだと理解しました。

これからもきっと数回読むことになるだろうと思います。

三部作がこのような形で綴じられたことは良い悪いは別として、妥当であるしまとまっていると思います。私は素敵な三部作とこの小説の繋がりを自分の感性の一端として刻んでおこうと思います。

次はどの本を読もうか、楽しみながら考えようと思います。

それでは今回はこんなところで。

ユミヨシさん、朝だ。

★今まで書いてきた「鼠三部作感想シリーズ」を下に載せておきます。よろしければぜひ。(この記事を投稿するタイミングではまだ「羊をめぐる冒険」の記事が揃っていないことをご了承ください。)↓

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