大学生という身分について。とてつもない無力感を語る。

雑記

 北風が吹き、ずっと外にいるわけにもいかないから家の中でホットコーヒーを淹れて少しずつそれを啜る。

コーヒーは誰かからの貰い物で、このコーヒーに必要な水とガスコンロの代金はそれぞれ私が払っているわけではない。

すると不意にこのコーヒーは私が飲んで然るべきものなのだろうか?と思いはじめる。だって私は特に親に従順なわけでもないだろうし、リベラルな考え方をしているのだから。本来庇護など受けるべきではないのだ。

ただ大学という負い目がある。それは主にでありそして安定への光であり時間の浪費でもあった。そして学問知識の宝庫でもある。

私の家は何だかんだ厳しくて不本意にも私は縛られていると感じるし、力がないと感じます。

私に財力があれば何ができるだろう?大学の費用を出してもらう必要もない、戸籍も抜けることができる。嫌なことに対して嫌とはっきりいうことができる。

そこに何の意味がある?と思う人もいるだろうし、極めて合理的でないと思う人もいるだろうと思う。あるいはバカな若者だと思うかもしれない。

けれど本当に最近いつもいつもそのことを憂いているように思う。素直に若さを楽しめない。迷いが生じている。私は私であると思いながらも束縛を感じる。

無力感。

これも創作エネルギーにはなるのかも知れないけれど、もっと自由に開放的に生きたいな。何でも自由に体験し、思考できる機会が欲しい。

もし時間をあらかじめ決められた分しか持っていないのなら、それをどう使うも私の自由ではないのだろうか。

こういう憂いに見舞われた時は何か非日常を計画しよう。

カフェに行く?酒でも飲む?あるいは鎌倉に行って仏像でもみようかな。

とにかく何かしてみようと思います。

普段「息抜き」というのはいずれ元の場所や仕事に戻るということの確約のもとの対症療法のようで好ましくないと考えているタイプなのですが、本当に追い詰められるとこうでもしなくては生きていけないものなのですね。

なにか一つ世の中の真理がわかったような気がしました。

それでは今回はこんなところで。ここまでお付き合いいただきありがとうございました!

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