川谷絵音の「ほころびごっこ」は救いをくれる。

雑記

私は川谷絵音という人物が結構好きで、その才能にも憧れの念を持っています。

しかし現代のアーティストですから、クラシックでない趣味だなあと思う人もいるかもしれませんね。

しかし何はともあれ私は、言うなれば彼の言葉に救われているのです。メロディに芸術を感じるのです。

ゲスの極み乙女とindigo La End を特によく聞くのですが、後者の曲で、久しぶりに聞いて素敵だと感じた「ほころびごっこ」について書いてみます。

ほころびごっこ……。

これは歌詞をじっくりみながら聞くことがおすすめです。素敵なフレーズがたくさん入っているので、そこからピックアップして話します。

全体的にいうと、おそらくこの曲は誰かとの次を歩もうとするけれど今まで過ごしてきた社会の中での焦燥感や孤独感もあり、とにかく不安定であったことが体に刻み込まれているという状況の中にあります。

その中でどれほどまでに他人であるあなたを、そのあなたから注がれる愛を、信じれば良いのだろうということなのだと思うのです。

そこでまず一つ目。

「急な温かいムードは痛みに似て痒い」

このフレーズ。私はこの一つのフレーズに救われました。近頃色々と悩んで、周囲との乖離を感じて、それを貫いていけるのかどうかと考えていった時にこのフレーズをふと見てなんとなくそのような自分でもやっていけるなと改めて思えたのです。

「温かいムード」これは、否定しにくいことだと思うわけです。家族にまつわることだったり、愛情のことについてであったり、当たり前に存在する道徳心の具現化であったり。

そういうものは言わずもがな求められている。そしてそれを否定することは「薄情者」であるということの象徴。そういう風潮があります。

現に私は、そういうものに対して痛みのような痒みのような嫌悪感のような恐怖感のようなものを持っています。それを心の底から肯定できない自分に何かしらかの不幸が舞い降りるのではないかと恐ろしく思うのです。

しかしそれが歌詞になって、陰気な音楽に乗って流れてきたら不安感が少し軽くなったのです。私はこのままであり、川谷氏のように表現者になれ場良いのだと思えたのです。

陰気でも、薄情でもそういう人間なのだからそういう人間のために何かを作れたら良い、そう思えたわけです。

そして次はこのフレーズ。

「コーヒーカップの縁が広がるほど酸味が刺激的になるらしい なら距離が伸びるほど悪くないってあなたをみて思う」

これは、音楽と合わせて歌詞を見ていただくと良いのではないかと思います。

距離が伸びること=答えやそれがもたらす幸福から遠くなること、と思いがちですがそうではなく、距離が伸びるつまり答えのないまま遠回りをしながら進んでいくことが自分自身を研ぎ澄ましていく過程になっているということをいっているのだと思われるのです。

それが「誰がつくったのかわからない」仕組みの中の自分に対する疑問を生んでいて、そこから「愛情」とも言えそうな何かが生まれようとしている。

そんな中で最後の部分のこのフレーズ。

「愛情ごっこで手を打とう その内本物になるかもしれない」

これは本当に好きなフレーズです。愛情ごっこで手を打つ。この手詰まりな状況に愛情を演じてみることで対処するということです。無気力が出した解決策のようにも見えて、この人物の苦しみの果ての心持ちが伝わってくるのです。

それに音楽と合わせて聞くと非常に語呂が良く、陰気な感じも漂い、素敵な調和として聞くことができるのです。

まとめ

 今回は、私が色々と人生について考えを巡らせ、苦しんでいた時にふと聞いてみた曲のことについての記事を書いてみました。

川谷氏の音楽は本当に素敵で、陰気な感じがして、表現が豊かなのが特徴です。私はいつもその曲に救われ、心を踊らされています。私が芸術家を目指すそのエネルギーの源の一つであると言えるかもしれません。

川谷氏がいつかこのほころびごっこについてのインタビューに対し「好きなことしかやりたくない」とおっしゃっていましたが、私も同じマインドで生きていきたいと思っているので、一つの憧れとして、これからも彼の音楽を聞いていきたいと思います。

それでは今回はこんなところで。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

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