生きている作家と死んだ作家の在り方に芸術たちのこころを見る

雑記

 ハンター×ハンターを読む、S氏。(※S氏…このブログの運営を手伝っていくれている方)

私はこの作品をよく知らないのですが、どうやら千日以上休載を貫いているそうです。

それを知って私は思いました。村上春樹氏はこういう状況が嫌なのではないかと。だからこそ話の節々で「生きている作家に価値はなく、死んだ作家にこそそれはあるのだ」ということを説いているのだと思ったのです。

おそらく純文学とは、その作家の作家としての人生の全貌をもって一つのストーリーが完成されているものなのではないかと思うのです。

それはおそらく純文学を書こうと思う人間は人生の中で数々の物事や定義、さまざまなものを考えて生きているのだと思うのです。

もちろん志していない人の中にも深く人生を考えている人はたくさんいます。しかし、純文学を志す人はおそらく例外なしに人生を考え抜いていると思うわけです。

つまり、そういう人々の書いた本を通して読むことは、人生を考え抜いた人間の人生とその中での苦悩を見ていることと同じ意味を持つのではないかと思うということなのです。

だから死んだ作家の本でなくてはその全てが完結していない。そのため完結していないハンター×ハンターを読む心境と同じなのではないか……。

芸術にはえてしてこういうところがあるからこそ、あの宮崎駿氏も「これで終わりにする。」と何度も何度も言ってきたのではないだろうか。

終わりをしっかりと決めることこそが自らの人生の誠意ある完結であると感じ、自分の肉体の衰えが最果てに辿り着く前にそれを一応の定義としたかったのでしょう。

それは意識的なものかもしれないし、無意識的なものかもしれない。

でもなんとなくそんな気がするのです。芸術家にはどこかそういうところがある。

そう考えると死んだ作家の本たちを追って読んでみたいとも思えます。時間が空いたらやってみよう。

それでは今回はこんなところで。

ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

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