以前、ブログに「理系の民に『カンガルー日和』を語れと言われると難しい」というタイトルの記事を上げたように思いますが、その時話をした理系の方とお話をする機会があったのでここに記しておこうと思います。
彼はどうやら普段はプログラミングの天才のような人なのですが「話をする」ということは大変好きなようで且つものすごく人懐っこいというような方です。
私も人懐っこいかはさておき、落ち着いて話を聞き、発言してくれる相手との一対一であれば話をすることは好きです。
ですので私は彼と数時間話をしていたのですが、能力と関心のベクトルが全く別の方向にある反面互いのあり方が似ていて波長が合うのです。
物事への取り組み方や、話をするということへの考え方、何か目標に向かって生きる姿勢、そういうところが似ているわけです。
しかし先述したとおり、能力と関心が別の部分に向かっているので、全く別のものの見方が発見できるのです。
その上根本的なあり方については共感ポイントが多いわけですから、大変不快感なく新たな知識やものの見方を知ることができます。
彼は少々穿った見方をしますが、私も別の方面で少々穿った見方をするので面白いのです。
そして話ていて頭が整理され、その上、話をしていて何か興味深いポイントを見つけると私自身が散歩をする間などにそのことについてじっくり考えることができます。それにより思考が深まり、私がアップデートされます。
そして文章もさらに書けるのです。なにか原動力が湧いてくる。表現しないと爆発しそうなほどに脳の中で思考したことが蓄積されていく。
これはなかなか良い感覚です。私には文章を書くことが真に必要なことであったということがよく分かりました。
そして、その思考に行きつき、疲れてしまうとついには本が読みたくなります。一時的にこの場から逃げたいと思うのです。そして芸術そのものの集積としての本を読み、自分とそしてこの世界に対して希望が生まれる。なんでもできるような、どんな芸術も作り出せるような、そんな気持ちになる。
つまり何かを話して自分の思考をまとめること、そしてその上で生活の中で相手の言葉の真髄を考えるということがとても重要なのです。
そして私が生きるということがわかっていき、それが文章に変わっていく。このプロセスありきでの創造者なのでしょう。
なんとなくそのプロセスの作りかたのひとつが見えたような気がしたのです。
これからも色々なことを考えながら日々生きていけたら良いなと思います。
それでは今回はこんなところで。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!
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