現実から目を逸らさないと生きていけない

雑記

 現実なんてものをずっと見ていたら目が腐ってしまいます。

日々色々なことを考え、しばしば真っ当な考えと言われる考え方とは相反するような答えが出てきてしまうこともあります。

するとひどく困惑します。

「私は今日も私であった」ということに対する言い表せないほどの充実感とその反対、「私は結局のところ誰にも理解されないのだ」というこれもまた言い表せないほどの焦燥感を抱くのです。

あるいは何かを満たすためそして叶えるために働きかけたのに、今度は他の部分が目立ち始めて、何やら複雑な気持ちになってしまう。

そうしたアンビバレンスに耐えきれない心はあちらこちらに彷徨い、つには絶望の淵にたどり着きます。

私はそういう時、真っ先に「死」を考えます。なぜなら自分の「死」は本来自分によって決められるものであるべきだし、最もストレートに全ての物事からの開放を促すからです。

しかし「死」には恐ろしい苦痛が伴いますし、自己実現を最終目標にしているので少なくともそれが達成されるまでは生きていることは半ば私の中で義務です。

そして「死」はその解決策から外れることになります。

ではアンビバレンスに耐えきれない心はどこへいくのでしょう。

多分それが活字なのです。活字の良いところは、それを読んでいる間も書いている間も自己啓発であると自分の時間の使い方に関する自己肯定感を維持できるところ、そして特に書く場合においてはほとんど時間無制限に現実逃避ができるということです。

こんなに都合の良いものはきっと他にありません。

だからアンビバレンスは私にとって芸術へのエネルギーのように思えるわけです。

そしてそうしたことを繰り返しながら何となく騙し騙し現実を生きていくということなのだろうと思います。

私は近頃様々なことを思考しているのでその過程の端々でこのようなことを思います。そして生きていかなくてはとも思っています。

それでは今回はこんなところで。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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