ときどき思い出す宿命としての死について

雑記

 自分は避けがたくカテゴライズされている。では何にカテゴライズされているのか。
思考する段階。この時点で怖い。

多分、人というものにカテゴライズされる。その中の女にカテゴライズされる。

カテゴライズされているからには、そのカテゴリーをカテゴリーたらしめる要素を、なにか他の存在と共通して自分が持っていることになる。

そしてその要素の一つが、「死」なのだと思う。

たまに自分が死ぬということを思い出します。多くの人にその瞬間はあるのではないでしょうか。「いつか死ぬんだな」「この肉体の死が訪れるそのときを、この精神は見届けなくてはならないのか」とかそういうことを考えると思います。

私はそれがとても怖くて、考え出すともう止まりません。どんな死に方なら良いだろう、なんて考えたりもします。そして、こんなに死を恐れているくらいだから、自分の人格にどれだけ嫌気がさそうと、作家を諦めざるを得なくなろうと、きっと死ねないんだと思うとそれすら恐ろしく感じられます。

そしてそこまで思考がたどり着くと、こう思います。「そこまで私の人生に意味を与える作家の夢は、どうして私の中にある?」

だって、正直「書きたくて書きたくて仕方ない」という類のものではないのです。私が文章を書く原動力は、「いちばん綺麗な本という芸術を作りたい、作らねば」という、未だこの世にないものへの憧れのようなものであるのです。

すると、書いているその時間が何よりも楽しい、というのではないのなら、素晴らしいものが書けなかったら、それはただの人生の浪費だ、と思わずにはいられなくなってきます。

そういう窮屈な場所で生きているのです。

そんな大層なことを言えど、まだまだ私はいいものが書けず、ここのところも四苦八苦しているわけで……。

私の人生ってなんだろう。そこに付随する「夢」とは何なのだろう?

そのことをじっくり、時間をかけて考えていきたいです。

別に結論を急ぐことでもないですものね。

最近は憂鬱げな文章ばかりですみません。不安が多いようです(笑)夏だからかな。

でも、ツイッターで色々な方からコメントをいただき、励ましていただけたり、このブログが支えになっているというお声をいただけたりするととっても晴れやかな気持ちになります。

俯き加減で生きて、ボソボソと呟くように陰気でナイーブで切ない言葉を並べているだけの私が見つけてもらえて、話を聞いてもらえて、私は嬉しいのです。

いつもありがとうございます。

それでは今回はこんなところで。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

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