久しぶりに会った友人がもはや自我を失っていた話

雑記

先日、中学時代の同級生と会ったのですが、彼女はこの三月で短大を卒業し、そしてとある会社に入社するそうで。

暇もなくなってしまうようなので今回春休みのうちに会うことになったわけです。

先に断っておくと、彼女は多分社会的に見たら評価の対象になるだろうとは思います。真面目ですし、社会に貢献しようとしているから。

しかし、私から見ると自らの不可能性を信じすぎてしまっているというか、そこに囚われそして呪われているように感じられるのです。

彼女は彼女の中で次のようなライフプランを持っており、そしてそのモチベーションとして「世間体」や「みんなやっているから」という理由だけを挙げていました。

彼女の中のライフプランはこうです。

4月からとある会社に入社

仕事をしつつ出会い系アプリ等を使った恋人探しor婚活

25歳から30歳の間には結婚

相手の給料に問題がなければ専業主婦かパートしつつ子供を持ち、家事をして暮らす

確かに、こういう人生が一番失敗を招かず、平和で過ごしやすいのかもしれない。

でも話を聞いていると、彼女はこれを一応の「幸せ」とは思いつつも最上級の幸せとは思っておらず、どちらかというと「これが何もできやしない自分にとっては等身大の幸せと言えるだろう」という感じで生きる指針にしているように思えました。

もしかしたら多くの社会の中の人々はどこかにこういう気持ちを抱えているものなのかもしれない。

思えば今までの人生だって、「自分に自信がある人」がどうしても白い目で見られる傾向はあったように思われるのです。

私もそういうふうに聞こえる発言をすると批判的なコメントをされることもありました。

ですから被教育者である段階から「世間体」さらに言えば「周りの目」が気になり、それらからの評価をモチベーションにする生き方をとってきた人あるいは取らざるを得なかった人は根底に「自身のなさ」をまるで自我をなくす洗脳の結果かのように持ち合わせているわけです。

しかしそれで社会が回っているのだということを感じざるを得ませんでした。

彼女はもう変わってしまってあるいはレールに乗り続けてしまっていて、私の意見や考えなどには全く聞く耳を持たないのだろうけれど、それでも私は何となく彼女のこともそうして回る社会のことも悲しくて少し恐ろしくてしょうがない。

私は私自身のためにもいつかもっと寛容になった彼女のためにも今の私のためでいたい、と心から思いました。

そしてやはり、観念の中でだけでも私が私の全てを受け止め、悲しみも悲しみのまま受け入れ、そして私だけで完結することを証明できるように生きたいとも思いました。

社会って難しいし人って本当に難しいな……。わからないことばかりでこわい。でもだからこそロマンスや芸術は生まれうるのかな。

ひとまず、今回もここまでお付き合いいただきありがとうございました!!

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