この間の群像新人賞に応募してみた作品を読み返してみたのですが、「これは厳しいんじゃないか」という思いが込み上げてきました。
しかし経験値の少なすぎる私は「群像」に応募することがひとつ大きな取り組みなので完成度は100%理想系になるというわけではないことは分かっているのですが……。
それにしても、私は群像を理解しきれていなかったと強く感じます。それは「さようなら、ギャングたち」を先日読み直したからでしょうか。とにかくあの作品には輝きがあり、優しさが含まれていたことは覚えていますし実際その質の高さに驚愕したというところもあります。
落選が分かった時点でこのブログには今回の応募作も載せるつもりでいるのですが、その作品が、私視点から見たとき「別に悪くないけれど何か物足りない」という類のものなのです。
群像を意識すると何か「強さ」のようなものが足りない。他の賞を意識すると「広く刺さるメッセージ性」のようなものが足りない。
なぜ「強さ」が足りないのだろうと考えたときにそこには「強さ」を生み出すエネルギーが足りていないのではないかという仮説が立ち上がりました。
多分そのエネルギーは「苦しみ」か「豊かさ」どちらかのベクトルに大きく心と思考が揺れたときに現れるものであるように思えるのです。
しかし現状を変えていく、あるいは外界から私への何かしらかのアプローチがもたらされる、ということなしにはそれらは生まれません。
そこで思いついたのは、色々な物事に対して神経質であるという私の素質とロマンを求めつつも非合理と判断した場合にはそれらを切り捨ててしまう自分の世俗的価値観に目をむけるという取り組みでした。
私はそれらを日常の中で実行してみると、元々よく物事を思考する類の人間ではありましたがなおそれが際立つようになりました。色々なことが気になりはじめ、深く自分の中に入ってきて掻き乱し、私は人と人との関係の中に埋もれて(本来最も重要視すべきだった)自我というものを内に隠すことがうまくなっていたことに気がつきました。
そしてそのたび言葉が溢れてきました。
そして、「ああ、こうやって生きなくてはいけなかったんだな」と自分の中で一つ私自身に対する理解が進んだように思えるのです。
それゆえ私は純文学系といえども全く以前とは系統を変え、もっと挑戦的な作品を書けているように思えます。
これが良いことなのかそうでないのかは私にははかれませんが、ひとまず書きたいことを書きたいように、心置きなく書いてみようと思いました。
宝くじが買わなくては当たらないのと同じで、本もまず書かなくては何も成果を生み出せませんものね。
ひとまず自由にやってみようと思います。
とりあえず今回はこんなところで。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
コメント