何かに追われるとき、見失うもの

雑記

 新人賞の締め切りが近い。

本当に間に合わないかもしれない。(と、いいつついつも必ず間に合わせるので、それがとてつもなく大変になるだけではあるが。)

しかし大学は始まろうとしている。履修登録期間だ。

問題はその焦りを感じた瞬間だ。その瞬間、私は止まってしまう。今日が何曜日かも思い出せない、今日がどんな天気だったかも思い出せない。そういうふうになってしまう。

そこからの文章を書くという所業は結局のところ作業という位置付けになってしまう。私はああ、またこうやって焦っているなと思い、ため息をついてコーヒーを淹れる。

私はその状況を少しでも打開したいがためにこの記事を書いているというわけです。

人間は、いつも何かに追われています。それは自分自身であることもあるし、組織であることもある。あるいは他人であったり、何かしらの観念であることもあります。

しかし成功者は多分違うんだろうなと、いつも何かに追われながら思います。

それは自分の文脈の中で生きているからです。何かの基準でものを考えたりしないし、何かの基準に則っている場合でもそれが通常の人より極端に少ないのだろうと思うのです。だから自分のペースで物事を仕上げにいってもそのリミットには自ずと間に合うのではないかということです。

私にはそこまでの自信がないのだと思います。結局与えられたチャンスを義務を軸に物事を捉えなくてはいけない。自分の文脈で、自分のテリトリーの中でやっていくことができない。

まだそれが不十分なのです。

しかし確実に自分というものを作りつつはある。「こうありたい」と思う状態でいられる時間をなるべく長くしていくのです。

そして絶えずそれを意識し続ける。なかなか大変です。

しかしこうして何かの期限やテーマなどに追われに追われると、「こうありたい」と思うことへの執着が途切れ途切れになっていくのです。

つまり、目の前のことに追われて先を見据えた心の持ち方を忘れてしまいがちであるということです。

これは大問題です。私はいかなる時も、きっちりとそのことを意識する必要があるのです。

そのための防衛策としてなのでしょうか。私は随分とのんびりやです。焦り出したら気が狂ったように焦ってしまうけれど、基本的には焦るということをしません。避けています。

それは何かに追われていると気がついたとき、見失うものが大きすぎるからです。

私が私を確立させるために常に私を保つ必要があるわけです。

さて、思い直して、余裕を持って小説を書くということに従事しようと思います。うまいこと、素敵な言葉を紡げますように。

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