美しさの観念について。『キングダム』第十六巻の話より考える。

雑記

 先日知人(大変変わった人で学生時代国語は大の苦手で理数系科目は抜群にできたという方)と漫画『キングダム』について話をしていました。

彼も私もこの作品を読んでいる最中でありまして、彼はこの作品の第十六巻王騎の死の部分も読んだということでした。

彼はそのシーンについて、「王騎殺さなくても、後からどこかに連れて行かれて生き返っても良くない?」といっていたのですが、私は「いやいや、あそこで死ぬから美しいんだよ。」と言いました。

すると彼は私に、「王騎が死ぬことの方が良いと判断しているの?」といいました。私は「いやいや、良い悪いで判断できない。死は良いことであるとは言えないけれど、その描かれ方によってその美しさが決まる。」と答えました。

しかし彼は「美しさは主観的なものなのだから、自分にとっての美しさと君にとっての美しさは違う」と言いました。でも私は、彼が「美しさ」だと思っているものは、実際には「美しさ」なのではなく、自分という立場における「幸福度」なのではないかと思ったのです。

まず、美しさについて私は、「美味しさ」や「暑さ」「寒さ」などのように一つのパラメーターで見ることができない観念であると考えています。

詳細に描き込まれた海の風景画と、ピカソの絵を並べて、どちらが美しいですか、と言っても答えられないと思うからです。

つまり、美しいか否かを判断するときにそこに含まれている「好ましいもの」と「好ましくないもの」がどういうふうに描かれたり重なり合っているかによって一回一回個別性を持った「美しさ」が生まれていると思えるわけです。

そこで彼は「王騎の死」という好まれざる事象を避け、全てを丸く収めようとしてしまっている。これでは、「王騎」という好ましいキャラクターに死んでほしくないから、生きていてくれたという「幸福度」を上げてストレスない形を望んでいるに過ぎない。

これは美しさではないように思えますし、美しさであったとして奥深さのない美しさであると言えると思われるわけです。

それゆえ私は、この「死」という観念には「美しさ」を付与するにあたっては凄まじいポテンシャルが含まれていると思っています。

今語ったことは、まるっきり私の持論ではありますので、色々な考え方があるとは思います。ただ、こんな出来事があったのでぜひお伝えしたく思いこの記事を書いた次第です。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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