あの日たまごがもらえていたら。

雑記

 最近、私はより私の本質と向き合うようになりました。「こうありたい」じゃなくて、「本当はこうかも」というような自分自身との対峙の仕方です。

私はひどく小心者で、臆病で、寂しがりやで、曖昧を好み、逆に言えば選択することを怖がっているというようなそんな人です。

この性質は歳をとるごとに顕著に現れ、ここ数年ですっかり板につきました。高校生の頃なんかは、受験や人間関係に没頭してそんなふうにネガティブになる暇もなく駆け抜けていたし、自分をエネルギーのある強い人だと思い込んでいてそういう振る舞いをしていたので全然気がつきませんでした。

私が根本的に弱い人間だと気付いたのは大学受験の後半、過敏性腸炎症候群というものになったことでした。緊張やストレスで吐き気やお腹の不調をもよおす類の病気です。

しかし今思えば小さい頃はジャングルジムにも登れない子で好きな男の子にはチョコも渡せず、中学生の時にはテニス部のストレスで顔面神経麻痺になって入院するというどうしようもない弱さを持っていて、成長過程においてもその兆候は見えていたのでした。

私はこれまでの人生でずっと、何か明確に「欲する」ということや「手に入れてしまう」ことを恐れていました。それらは私の頭の中に出現するとたちまち私の全てを占めてしまって、私を不安にさせるからです。

欲すればその心に従って目標物は遠ざるように見えて苦しく、手に入れてしまえばそれを維持できないのではないかと臆病になる。

だから一度手に入れたものがどんなにくだらなくても手放すことが怖くなって、いつまでもそれを捨てられないのです。

 最近、その私のいわば「カルマ」の根源をふと思い出しました。それが、たまごの話です。

私の通っていた幼稚園には鶏がいて、私はその鶏がすごく好きでした。毎日鶏のケージの近くに行って彼らを見ていました。

彼らはときどきたまごを産んだのですが、それを見つけた園児はそのたまごをもらうことができました。

私はそれが欲しくて、いつか見つけられたらいいなと思っていました。

おそらく年長さんの時だったと思うのですが、私は一度たまごを発見したことがありました。

急いで先生のところに行ってそのことを伝えると、一緒にケージに行ってくれた先生はこう言いました。「じゃあたまごは先生が取っておくから、バッグを取りに行っておいで?」

私は少し不安になりながらも鞄を取りに行きました。

戻るとそこにはたまごの入った紙パックを持った友達のリナちゃんがいました。

「たまごもらった!」と自慢するリナちゃんに私は「よかったね」と言って、バスに乗り込んで泣きながら帰りました。

私はどうもそれから少し、「手にする」とか「手放す」とかそのタイミングとか、「欲する」みたいなことに対して怖気付いてその癖が抜けなくなったみたいです。

私はそんなカルマを背負いながら今も生きていて、そのことに気づいたら、あの時たまごがもらえていたらどんな人生だったかなって思えて仕方がないのです。

逆にこれがカルマでないのなら、他の何が自分のカルマであったのだろうと少し興味もあったりして。

ただもうすぐ夏も終わるから、少しナーバスな気分は晴れるのでは、と思って一日一日を大事に生きてみようと思います。

それでは、また原稿も頑張りながら、人としての実生活的日々をしっかり生きていきます♪

ここまでお付き合いいただきありがとうございました!

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