自分の座標を確認すること

雑記

 私は実家から一時間くらいの場所で家族と離れて暮らしているのですが、かかりつけ医や美容室など向こうに残してきた少しのコネクションのために月一回か月二回くらいで実家方面に行っては泊まらずにすぐ帰ってきています。

あまり今実家方面に長居をできないのです。今年の夏に似た、奇妙な魔法がかかった街だからかもしれません。けれどその魔力は恐ろしいながらもとても透明度の高いもので、これを妙に感じて滞在できなくなったのは、私が順当に大人そして市民になってしまったからなのだろうと思わないわけにはいきません。

要するに、少しの自由と快楽と意思を手に入れた代わりに、少しばかりの狡猾さや邪さ、そこに付随する邪気のようなものを手に入れてしまったのでしょう。

それが空気の澄んだ地元にとっては受け入れ難く、また変化してしまった私にとってもそんな綺麗な地元と向き合うのはあまりに疲れることだったのです。

 けれど私の成長過程や思考、外郭の消えた時空(長いこと通った塾が潰れて壊された後の土地を見てその二階に流れた時間と空間を思って、モノがなくなっても時空とその記憶はそこに奇妙に残るものなのだと思ったのだ)、その形跡、それらを見ていると、ここに生きていたのだという事実と現実問題として呼吸するので精一杯なのだという私の状態を思ってその不調和に鳥肌すら立つのです。

とはいえここには紛れもなく私の生きた証が散らばっていて、私が置いてきたいくつものカルマに似た何かが転がっていて、そういうものと対峙するたびに私はここに私の人生の北極星を有しているのだ、と思わざるを得ません。

そこから距離を置けど、必ず視界の端には地元があって、その地元はいろいろなものたちへの生産を要求しながら確実に私の帰る家を構えて待っています。

私の存在がそこになくとも、観念としての私を常に想定しながら時間をゆっくりと消費している、そんな場所であったのです。

私の創作短編集『二十一』の冒頭の詩「二十一」に書いた内容にはこんな不調和も含まれていたかもしれません。

そんな精神的負荷を負いながら少しずつ地元と触れ合うと、私の座標もわかります。そして戻ってくるたび、この街はレプリカなのではないかという違和感は強くなり、それによって私はずいぶん遠いところまで来てしまったのだと思わざるを得ないのです。

何も変わってなどいないと思いながら、日々を過ごしていくうちに少しずつ変わっていった私を感じて、今の私はあまりにも若すぎて柔らかすぎて存在として曖昧なのだろう、と少し泣きそうな気持ちになる。

そのためにときどき地元に行くのかもしれない。

消えてしまったものが、消えてしまったことにすら気づけないのは、すごく寂しいことだから。

コメント

タイトルとURLをコピーしました