「世のため、人のため、次の世代のため」その言葉を数え切れないほど聞いて育った私が今思うことについて。

雑記

 アルバイト、課題、誰かの誘い、そういうものに追われる。それは確かに頼られているということや自分に何かの役に立つ可能性が残っているということなどの現れとも取れます。

しかし、それはただあらゆる物事と時間のなさを甘受するための慰めでしかない、と取ることもできます。実際何が正しいのかわかりませんが、ただそういう見方ができる、ということです。

私はいつの頃からか、決められた誰か(大切な誰か)以外の人や学校や会社などの組織のためになることをすることに有意義性を感じるという意味での価値判断ができなくなりました。

何か決定的な瞬間があったわけではありませんが、長年言葉にも感情にもならなかった想いが多分出てきたのだと思います。

どうして長年?そう思うでしょう。実は父が私にずっと言い聞かせていた言葉がありました。

それが「世のため、人のため、次の世代のため」

父はいつも、そういうふうに生きなくてはいけないと言いました。多くの人間がそういうふうに生きなくてはならないのだと。

私は小中学生の頃から何かしら違和感を抱えていたように思います。もちろん素晴らしい理念であるし社会の維持にはつながりますが、誰も「自分」を持たないかその優先順位が低いという前提がないと説明がつかないのです。

要するに、いくら人のためなり次の世代のためなり動いてもその想いのあてがなくては意味がないのではないか、とごく純粋に思ったのです。

結局皆が他の人間や次の人間の活躍を願い、動いているようでは結局大成する者も何かを大きく変える強い意志を持つ者も現れない。

だとすると、今の状況を維持することしかできない、つまりどこにも行けない社会そして共同体が続いていくだけなのでそれは非常に絶望的で希望のない世界のなのではないかと思うのです。

人のために努力できることは必要なことであるけれど、皆そうだと困るわけです。

そして、これは最近思うようになったことですが、真に人のためになることができるのだとすれば、それは少なくとも「人のために」という発想が出てくる時点で達成せられないのではないか

と。

まずは「自分を完成させる」ための行いをどれだけ真剣に行えるかというところが勝負なのです。そこで、自分を極め、理解して完全な状態に持っていく大いなる努力をして、それで初めて何か言えることがあったり成し遂げられることがあると思うのです。

そして初めてその完成された成果や言葉に感動し、憧れ、活力を得る人間が現れる。そういう人間が多くなって、主体的に志を持つ人、受動的ではあるけれどかつて自分の憧れだった誰かに近づけるように前を向いて努力できる人が増えていけばもっと豊かで前進的な共同体が生まれると思うわけです。

そして私は自身がそういう人間になりたいと思う。完成された自分をもって色々なものを作り出し、自分を真剣に生きてその結果誰かのためになるというものが後ろについてくる、そういう形を築きたい。

それには多くの時間、労力、運、才能。そういうものが必要になるので成功するかはわからないけれど、とにかくそれに向けた努力はしたいと思っているのです。

それゆえ私は父の言葉がなんとなく核心をついていないように思えるわけです。

しかし世の中には色々な人がいます。だからこそ誰もが自分の人生に価値を見出せれば良いし、自分自身にも価値が見出せるように動けばそれで良いのです。

それが結果自分を完成させるための努力というものに変わっていきます。

「世のため、人のため、次の世代のため」と考えるのはもっと後で良いのです。とにかく自分が出来上がっていない今は「自分のため、明日のため、未来のため」このくらいで良いと思うのです。

そして私は今日も文章を書きます。毎日、文章を書きます。これからの自分のために。

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