村上春樹Tシャツを着た人を駅の雑踏のなかで見つけて思うこと

村上春樹

 そのとき私は結構大きな駅にいました。高校時代の友人との待ち合わせのためです。その友人は大抵私よりも遅く待ち合わせ場所に現れます。おそらく自分の時間軸があるのです。私もその手の人間ですから、よくわかります。

誰かと待ち合わせをするとき、いつも私の方が遅くなるという相手と、私の方が早くなる相手。毎回それが前後するというようなことはなかなかありません。それは生きる上でのペースのようなものなのです。それがうまい具合に保たれているから、そういう現象が起きるというわけです。

そういう時間軸を誰かとすり合わせておおよその時間を定め、一定の輪の中で関わりあう人間が、皆駅の中のシンボルに集まります。皆大きな意味では同じことをしているのに誰一人として口は利きません。互いの特性など気にしていないのです。

私もブログを書いていなければそんなことは少なくともこのような文脈では思わなかったと思います。

そんなことはわかっている。皆、特に変わった特性も無く、でも全くの他人として隣にいる。そのことに気がついたからってこんな場で何も得意げに話すことでもないじゃないか。そう思う人もいるでしょう。

でもそういうことが言いたいのではないのです。村上春樹さんの「風の歌を聴け」の中で「僕」が言った、「強い人間なんかどこにもいない、みんな条件は一緒なんだ」という言葉を思い出したのです。本当にそうなのかもしれない。

皆本質は同じ。ただ目の前の状況を思って良い悪いを判断して思い上がったり見かけ上の成果を得たり、ただそれだけのことなのかもしれない、と。

そう思いつつ私は必ず遅れてくる友人を待っていました。

駅にはさまざまな人がいました。当たり前のことです。あらゆるパターンの人間が一旦集結してそれぞれの場所に行くための場所なのですから。いわば配電盤です。

足の不自由な老人。それに憐憫の眼差しを向ける親子、そしてスーツにリュックを背負った女。皆成長して今ここにいる。何かに縛られてここにいる。では縛られることも無くなったらどこにいってしまうのだろう?わからない、何もわからない。

そこに現れました。ダンスダンスダンスのTシャツを着た、男なのか女なのかわからないけれど、とにかくショートカットの人物。

私は一瞬小説の主人公になったような気がしました。まさか。あのTシャツを着た人間と出会うなんてことがこんな簡単に起こるわけがないのです。少なくとも私の中では。その人物は数人の中で紛れて改札に向かおうとしていました。私の時間だけが一瞬止まったように感じました。

スローに。なにかそのTシャツがあまりに強調されて、周囲から浮かび上がるように私の認識の真ん中に陣取り、時空を歪めているような感覚がするのです。

しかしそれはすぐに止まりました。

私は思いました。やはり、これほど簡単に出会うものなのか、と。

しかし出会ったのです。多分その村上春樹氏のユニクロTシャツを持っているのは私だけだとどこかで思っていたのでしょう。しかも限定の方でもなく、単なるダンスダンスダンスTシャツ。

私はSNSを思いました。このブログを運営するにあたってTwitterをやっていますが、その中でもこのTシャツを購入している方はたくさんいました。それなのに、実際その持ち主をこの目で見ると、ものすごく動揺する。混乱するのです。

きっと良くも悪くもTwitterの中で完結するかかわり、そのバーチャルを脱さないのです。

傷つかない程度に、傷を見つけ出してしまわない程度に、素敵な、それこそまるで宙に浮いたような快感を求めようとそこに居座りたくなる。そういうものなのでしょう。

しかしそれに比べ現実は非情です。私の中の目には見えない、容易には感じ取れない類の占有感をわざわざ引っ張り出して原型がなくなるまで千切っていくのです。

それは皆現実に期待なんてしないはずです。

私だって実のところ期待していません。しかし、現実を逸した場所を作る小説家になるためには現実での勝者にならなくてはいけない。

いくらそのアイロニーに嘆いても無駄です。そういうものだ、社会は。そう言われてしまいます。

それゆえ私は、間違いなく挫けてはならないのです。だからと言って競争心に負けてもいけません。

だからTシャツのことであっても受け入れます。そうしないことには何も始まらないのです。

私は今日はノルウェイの森のTシャツを着ようと思います。

きっと誰よりも素敵に着こなすことができますように。

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