自分が自由人なのか、若さが自由を求めるのか。

雑記

「私はよく思考する自由人です」

 あなたの性格は?と尋ねられた時にはこのように回答します。しかしそうは言っても私はあまりにも若い。若い。若すぎる。

若さは宝物。これは一般論であり、しかも正しいと思う。若い時間は然るべき手段によって使われるべきだと思う。

しかし、こんなに出来立てのアイデンティティなど基本的には認められない。「経験」とか言うどうにもならない問題を引っ張り出してきて私の前に叩きつける人はいっぱいいる。私はそのたび私のアイデンティティに問い直さなくてはならないのです。「ねえ、君の言っていることは本当なんだよね?信じていいよね?ある日何処かにいっちゃったりしないよね?」

その度アイデンティティの方は言います。「当たり前でしょう。」

でもそんなこと誰も証明できません。私がわからないことを他のだれかが分かったとしてもずいぶん驚いてしまうだろうと思います。

私はなかなかに悩みました。私が自由を求めることは「若さ」というあらかじめ決められたプログラムに基づく単なる反応にすぎないのか。そうであるとしたらこの数年を生き抜くことは、ひいては若さの中を生き抜くことは非常に苦しいことになる。もはや私が私の名前を名乗ることすら非常な苦痛を伴う事になると思いました。

私はそのことを思ってしばらく苦しんだ挙句一つの結論に辿り着きました。

そんなものは社会の慣習なのであって、今、2021年を生きる若い私とは無関係である。ということ。

もしも私と同じような悩みを抱えている人がいるとしたら、このように思えば色々なことが取るに足りないことに思えてきます、と(あるいは差し出がましいかもしれませんが)助言めいたことをしたいです。

2021年を生きる私からしたら、「若さ」の呪縛であろうとなんだろうとその思いが真実であり現実であり自分であるわけです。

つまりその度それに対して適切かつ明確な対処をするか何かに昇華するかの取り組みをしなければいけないのです。

いつであろうとなんであろうとそれは避け難いことです。生きている以上、付き纏うことなのです。

それを若さや多忙のせいにして対処を遅らせていてはいけない。機会損失につながるからです。

それなら、「不自由」と感じるならその「不自由」にできる限り対処できる力をつけようと思います。いつになるかわからないけれどそういうものが真に手に入ったら素敵だな……。

ひとまず今回はこんなところで。ここまでお付き合いいただきありがとうございました!

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