書けて書けて書ける。

雑記

 書ける。思考が極まり、神経質に生き続けて、そしてやはりいくらでも書けるような気がする。

リアリズム。最近思ったことは、自分の持てる力を少なくとも今最大限に活かすことができるのはこの方式なのかもしれない。

目まぐるしく変わる状況の中にいると、私が考えたストーリー以上に現実の世の中の方が複雑性を極めていて且つなかなか興味深いということも珍しくないのです。

その上、私はそういった情報を仕入れると四六時中そのことについて考えるような人間です。だから常に現実から創作に対するモチベーションをもらっているともいえるわけです。

そして私は群像新人賞のことについてひとしきり考え、少しずつですが「さようなら、ギャングたち」を読み、私は一つの仮説を思いつきました。

・なるべく理性的にならないこと。

・半ば考え抜いて絶望して逃げ道のない状況になり、文章に救いを求めること。

これらの要素が基礎となって出来上がった作品は独自性を十分に湛えていて且つ群像的でもあるのではないかと。

実際じっと思考をしているとそういう心境になってきました。

そしてやがて先程の二つの考え方は「プロットを書かない」という結論に達しました。プロットを書かずに(脚色を大いに加えた)自叙伝のように書いていく。こういう書き方にこそリアリティのある表現や描写、極まった思考が反映されるのではないかと思ったのです。

私は文章を書きたいだけでなく、「作家になる」という意味での自己実現を大きな目標として捉えているところがあるので、なにか素晴らしい本を書くということを考えるとどうにも打算的な気がします。

しかし、その分そのことについては多くのことを考えてきたと思われるので、そのことをただ書いていくというのはリアリティの意味では高められるでしょうし、自分にとっても有意義なものとなると思うのです。

そして新たに書き始めました。プロットを書かずおおよその人物だけを決めて書き始め、その日に書いたところまでを逆にノートに記録し、文章を書いた後にプロットができていくような仕組みです。

そうすることで私は、次の展開への繋げ方などといういかにも計画的で理性的な思考に縛られることがなくなり、ただ自分自身をなるべく素直に書くことができるように思えるのです。

群像はこの間締め切りになってしまいましたが、また一年あるので、その中でなるべく良い作品を書きたいと思います。実際今書いているものをこのモチベーションでこのリズムで書き続けられたら、たとえ賞が取れずとも完全に納得のいく作品が書けるような気がします。

それでは今回はこんなところで。ブログ(それもとりわけ雑記)を書くというのは、ある種の自己啓発にもなりますし、私が私を保ち続けることにも役立ちます。

ですから、読んでくださる方々にはとても感謝しているのです。

いつもお付き合いただき、ありがとうございます。

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