前回に引き続き、「風の歌を聴け」の考察をしていきます。
前回と今回はそれぞれ別の観点で作品を見ているのですが前回「風の歌を聴け」を考えるにあたっては「羊をめぐる冒険」に繋がる、僕と鼠の青春時代の把握として、あるいは作品そのものとしての意味や芸術性に着目する、という二つの観点を用意できるのではないかと書きましたね。今回はその後者、作品そのものとしての意味や芸術性に注目して読み解いていきたいと思います。
今回は作品そのものとしての意味や芸術性という観点での解釈感想の枠組みの中に幾つかの見出しを設けてみました。もしお時間に余裕がなければ、興味があるところを抜粋して読んでみてください。
1-1 作品そのものとしての意味や芸術性という観点で見つめる、「風の歌を聴け」感想解釈
いつも重要なことを言い忘れるしいつも後から大切なことに気づく「僕」は、作中ずっと調子を変えません。人間らしい心の在り方を獲得しようとしていた、少年期が関係しているのではないかと思います。熱を出した後、平凡な少年になった僕はおかしな意味で「平凡」であることが最も円滑な生の方法であると感覚として感じてしまったのでしょう。
この作品では、「平凡」という概念とそれに対立する概念を対比するように描いていますが、単純に本当に僕が平凡なのかと言うとそこはクエスチョンマークであるのが現状とも思えます。
この点は、作品そのもののテーマの一つであるとも言えると思うわけです。
まず僕は僕について語る段において「平凡な少年になった」と言っているので、僕は僕自身を平凡であると認識していると言って良いのだと思います。その上で、鼠に対し「僕は試しに〇〇と言ってみた」等の表現やジェイとの会話、女との会話などから、あまり真の平凡とは思えません。実際女には「あなたって変わっているわ」などとよく言われている印象があります。
「飛んでいった小指は今どこにあるのか」などということを質問するのも、なかなか平凡ではないように見えますね。そして何かにつけて少し無機質な僕の対応は、平凡というよりも達観した雰囲気が感じ取れます。常に第三者的な目線を持っていられるのだろうということです。
反対に、自分のなかで何かに対する答えや見方をすでに持ち合わせた状態で生きているのが鼠です。本人もその価値観を通して世界を見ているため、あまり達観した目線は持ち合わせておらず、何か外的要素によって自分を侵害されてしまうと、その波に押されてしまうようなところもあります。
つまりこのような構造を見るに、自らが思う自分というものは実際何か別のものから見たら全くその通りには見えていなかったりするものであるということが言われているのではないかということです。全てにおける物事が見えているつもりで見えていなかったりするわけですね。
このような認識と現実の齟齬からひび割れてくる自我や、そんな中に流れる性愛を伴った青春時代。そういうもののコントラストを意味ありげに、そして美しく描いた作品になっているのではないのでしょうか。
また、注目すべきシーンは他にもあります。
1-2 「嘘だと言ってくれないか?」について
文庫本で言うと121ページでしょうか。僕が珍しく鼠に対して論を叩くシーンです。
そこで僕が言ったことを要約すると、「皆条件は同じで、財に関してや運に関することでのいわゆる細々とした差異はあっても、人並外れた強さを初めから確固として持つ者はいない。人はどこかしかに弱さがある。そしてそれに気がついた人間が少し強いふりをするだけ。」ということでした。
これに対して鼠は「あんたは本当にそう信じてる?」と言い、「嘘だと言ってくれないか?」と真剣に言います。(本作ではこれが鼠の最後の生身の会話であります)
この返答から伺える鼠の状況として、どういうことが言えるでしょうか。
鼠はもとより金持ちが嫌いでどこか自分の欠陥は自分が金持ちであることに由来しているような気がしていることが全体を通してわかります。しかし一方では自分がどちらに身を置いているのかはっきりしないという見方もできます。
「時々自分が金持ちであることが許せなくなる」
「(金持ちとは違って)我々は風呂の栓のサイズまで考えなくてはいけない」
と、それぞれ自分を別の視点から見ているような気もするのです。鼠の中にある種のブレが生じているようにも見えます。
しかしとにかくこれらのことを鑑みるに、鼠は人間の主に「財」に関してコンプレックスを持っているように思えます。つまりそういう部分での差が人間の本質的な差にまで大きく影響していると考えているわけです。
そこでの僕の言葉です。これを思うと少し胸が痛みます。信じていたものが崩れ去っていく絶望感と、今までその人間の差異の根源を憎むことで救ってきた自分は虚構であったという悲しみが一度に襲ってきたのです。だからこその「嘘だと言ってくれないか?」であったのでしょう。
その後鼠がリアルに話をするシーンがこの作品には出てきませんが、敢えてそうしたのではないだろうかとも思います。
より塞がった鼠の心と落ちていく精神状態の描写を次の作品に繋げたかったから、と考えられるような気がします。
1-3 進化の話と女の嘘
それからこれは単純に私の好きなシーンなのですが、文庫本で135ページから146ページのところです。
まず人と宇宙の進化の話。個々の事情で考えたら進化なんて必要ない。進化のエネルギーに耐えられなくなって死んでしまうなら、当然そう思いますよね。
しかし紛れもなくそれは存在していて、しかもその理由やそこに介在する意思の存在は全くの不透明というわけです。それは間違いなくこの世の中にはどうにもならない類のことが起きているのだということの現れとも取れます。
135ページから136ページにかけて女と僕のこの問答が続くわけですが、これはどこから始まったのかというと、女の「何故人は死ぬの?」という問いかけがそのスタートなのです。
彼女はこの問いかけに対して、僕が観念的な答えを用意していないとわかっていたのであると考えられます。「永遠に生きてもいいことなんかない」だとかではなくて、現実的な答えが返ってくるとわかっていて聞いたのです。
「僕」は「曇りが好きだな」という人間に対して「だったらロンドンに住めばいいよ」とでもいうようなタイプだからですね。
案の定彼は、「謎のエネルギーによる進化の衝撃に耐えられなくて死ぬ」と言います。
そんなふうに死ぬのなら余計に人間の意思やそれによって消えた命(この場合は女の中絶によるもの)には人間が(もちろん観念的な意味で)考えるほどの意味はないということを他の誰かの言葉をもって悟りたかったのでしょう。彼女はそれを僕から引き出し、「ねえ、百年もたてば、誰も私の存在なんか覚えてないわね。」と言う。
すると僕は「だろうね。」と返します。彼女はきっとこの問答に救われているのです。
そしてこれは彼女のついた嘘が何なのか明かされていない段階の問答ですから、のちに明かされる真相の伏線であるとも取れます。
その後二人は海を見ながら少しだけ会話をします。女が、一人でいる時にいろんな人が自分に向かって死んでしまえとか汚らしいことを言ってくることに対して「病気だと思う?」と言う彼女の問いかけに対しての「心配なら医者に診てもらったほうがいいよ」という僕の言葉は先程のような、うまい具合の現実性ではなく、うまくいかなかった方の現実性の露呈ということになるのでしょう。
彼女がその後うまく笑えなかったのは、僕の言葉に浮かぶどことない淡白さが物悲しかったからなのだろうと思うからです。
しかしこのシーンは女のことだけでなく、僕の感情も少しばかり見え隠れするのがポイントです。このシーンは他のシーンにはない、僕の僕視点での感情表現がされているのです。
134ページの、女の「本当のことを聞きたい?」に対する牛の解剖の話です。おそらく真実に察しがついていたのでしょう。何かをはっきり拒む様子はほとんどここでのみ表現されます。
そういう意味でもこのシーンは価値のあるシーンであると思います。それに、情景描写含め、この二人の会話が一つ一つ情緒的なのです。彼女と二人で静かな夜に抱き合うシーンは、どこか非現実的でありながらも、情景が浮かぶようでありました。
静かな夜に、何か長すぎる言葉もそこにはなく、ただ生暖かい湿った部屋で互いに悲しみ、そこには少しの愛の綻びも感じられる……。
悲しみはやはり作品の中に投影するととてつもない美しさを放ちます。そのような意味での良さは、このシーンに存分に発揮されているのではないでしょうか。
まとめ
今回は物語そのものの意味や芸術性という観点から「風の歌を聴け」を見つめてみました。
「嘘だと言ってくれないか?」と進化の話と女の嘘について特にたくさん私的解釈と感想を述べましたが、いかがだったでしょうか。もし、何かコメントいただければできる限り返信もいたしますので、よろしければどうぞ。
次回からも、鼠三部作感想シリーズは続きますので是非チェックしてみてください♪( ´▽`)
ここまでお付き合いいただきありがとうございました!
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