小説を書くことについて。読書という営みについて。

どこにも属さないもの

 小説家になりたいと思うのは、どうしてなのでしょうか。私自身のこと、他の人たちのこと、少し考えてみて自分の創作活動にも主にモチベーションの意味で生かしてみたいと思いました。

 もし他に、小説家になりたいけれど行き詰まっている人や、単純に何かを書きたいと思う人間の気持ちが知りたいと思う人には読んでもらうと何か参考になるのではないかと思います。

 色々なことを書くと思いますが、全て私の私的な考えです。他にも色々な考え方がきっとあるとは、心得ています( ̄ー ̄ )

 さて。私も先日二つの新人賞に応募しました。どちらも中編くらいの作品です。その意味で3月は少し忙しかったように思います。大学に合格してから何遍か応募していますが、まだまだ完全なスキルを身に付けていないような気がするのです。

 自分の書きたいことを十分に書けていないような、そういう感覚です。しかしその感覚を得ているからといって、確固たるその感覚の原因を突き止められるかというとそういうわけでもない。

 おそらく、自らがこれから身につけるであろうあまねき視野において、実に多くのものを、感覚というものを用いて自分に取り込むことが必要なのでしょう。そして、その営みには終わりがなく、同時に若さが永遠でないことも忘れてはなりません。そう考えると、ある種絶望したような気持ちになります。自信がないのでしょう。

 書くということは実に幅広い作業です。どんな観点からでも書けるし、そのためのエネルギーが勢いによるものでもあり深い思考によるものでもあるということです。でも何かを感じて深く考えるということを少しでも忘れたり怠ったりすると文章を書くための何かエネルギー源のようなものが壊れてしまいます。そして一気に一文も書けなくなってしまうのでしょう。

 私はそれを避けるためにこのブログを続けているのかもしれません。少なくとも何かを考えながら文章を書こうとするその流れの中で自分のことがわかってきたり、今足りないものが見えてきたりはします。

 本を読む、音楽を聞く、ということからこの世の芸術に共通する輝きを摂取し自分の錆びた感性に油をさす。そしてそれについて思考し、感覚を確かなものに変えていく作業をする。このブログを書くことの営みにおけるある一つの流れが、確実に私に感性を宿ったままにしてくれている気がするのです。でもずっとそれを続けているわけにはいかないのです。自分の力でその全てができるようにならなくてはいけないというわけですね。

 そんな風に自分の鮮度という意味での時間を意識して焦り、そしてなるべく良い状態に保ち続けることは実は結構疲れることですよね。どうしてそんなことをしてまで自分の感性を保ち、何かを書き続けなければならないのか。

 小説家になりたいというと多くの人は私にこう言いました。

「何か伝えたいことがあるのね。」

「大きな社会へのメッセージ無くしてその文章は文学と呼べない。」

 理解に難くはありません。しかし小説の意味は本当にそこにしかありませんか。そんなことはないと思うのです。とはいえ私自身が今の自分に完成せられるまでは本当にそうなのかもしれないと思っていました。だから必死でそれを探しました。

 「人間は何事も深く考えるべきなのだ。」

 というようなメッセージを込めたい。最初に思いました。しかし書いてみると私はどうも真相や何かをうまい具合に隠すということができないようで、露骨になってしまうか逆に何が言いたいのか全くわからない文章になってしまうか。

 そこで思いました。自分が素敵だと思う文体で自分が素敵だと思う一連の人間模様を描いてみようと。そこにあるのは感性をぶつけるだけの簡単な作業。そして最も情緒的な作業。

 思いのほかすらすらとかけました。

 そして私は出来上がった作品を読んでみました。そこには「自由」というものの見方が連ねられていて、そこに優しい描写と少しのおどろおどろしさとが混ざり合った、今まで書けなかったような作品が書けたのです。そして私は気がつきました。少なくとも、今私に足りなかったものは自由であって、その点に対して疑問を呈したいのだ。

 そしてもう一つ。初めから理念などもたず、物語の矛盾が発生しないようにということだけを考えて文章を書いたとしても何かしら後から見つかることがあるということ。

 そうして出来上がった文章には少しだけ今の歳の私の魂が入っているわけです。その文章の出来が良い悪いという観点は別として、少なくとも文章を書くことで自分が見えてくるのです。そして世界が見えてきます。自分が、自分として生きる、自分が中心の世界の見え方がわかってくるのです。このような営み自体は自分自身の完成を早めてくれるものでもあるのだと思います。

 読み手側もきっと同じです。私もよく本を読みますが、その本を書いた方は何かを意図したわけでなくとも、読み手がそれを読んで色々なことを考え仮の定義を作ろうとすることこそに意味があるわけです。その行為によって本も自分自身もその身の意義を一つ獲得するのです。

 あくまで私が、本について考える場合ではありますが。(笑)

 少なくとも今私が小説家を目指そうと思うのは、「自分自身を完成させるための理解をするため。」人のためになろうと思うのは、それができてから出なくてはいけないと自分は思うからです。

 それから、やはり一番は、自分が文章を書くことで芸術作品を生み出したいと思うからです。

 結局はその思いがあれば、一時的に感性が錆びて書けなくなってしまっても、またいつか自分を思い出せるのだと思います。

 文学においては、書くほうも読むほうも自分との対峙であり世界との対峙であるのです。

 そう考えたら、少し気が楽になるような気がしますね。特別大きな意味を込める必要も探す必要もないわけです。自然に見つかる時は見つかるのです。

 というように今の年齢の私は作品を書くことや読むことについて考えています。もしかしたら変わるかもしれません。人間は常に変化しているので、そういう見方ができなくなることもあるのではないかと思うわけです。

 私はまだ道半ばです。仮説が間違っている場合もあります。もしも夢が叶ったらその時に何か新しい見解ができるかもしれませんしね。

 ひとまず、今回はこのようなことを記事にしてみました。何かの役に立ったら嬉しいです。

 なお私は他にも本や音楽の解釈や感想等の記事をアップしていますので、よろしかったらどうぞ!

 では今回はこんなところで。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

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