村上春樹「風の歌を聴け」感想解釈〜鼠三部作シリーズ第二弾〜

村上春樹

 前回に引き続き鼠三部作感想シリーズの第二弾として「風の歌を聴け」の感想解釈を述べていこうと思います。(もちろんシリーズを通して読んでいない方でもお楽しみいただけます!)

 「風の歌を聴け」感想解釈本編については、前半後半の二部に分けようと考えていますのでその点よろしくお願いします。

1、風の歌を聴けについて

 前回も書いたように「風の歌を聴け」をはじめとした鼠三部作には共通して、どこか現実的で人間的な面の露見しにくい「僕」永年ナイーブで感傷的で僅かに頑固さも持ち合わせた「鼠」という人物が登場します。

 また作中において「この話は1970年の8月8日に始まり、18日後、つまり同じ年の8月26日に終る。」とあるように、僕の大学時代、夏の帰省の間の物語であることが窺えます。

2、感想解釈を述べるにあたっての前提

 まずこの「風の歌を聴け」を考えるにあたっては「羊をめぐる冒険」に繋がる、「僕と鼠」の青春時代の把握として、あるいは作品そのものとしての「意味や芸術性」に着目する、という二つの観点を用意できるのではないかと思います。

 ですので今回は、その二点それぞれで解釈を進めていこうと思います。

3、感想解釈「僕と鼠について」

 小説の中から着目したシーンを取り上げつつ、そこに対して感想や解釈を述べていこうと思います。

 「風の歌を聴け」にて出される「僕」と「鼠」に関しての情報はなかなか幅広く展開されています。つまり今後の三部作のうち二部作を読んでいくにあたって抑えたいポイントであるということですね。

 まず僕は、少年時代無口な少年で、そのせいで精神科医の家にまで通わされたが、その中では医者に対して疑心暗鬼を生じていたようにも見受けられます。しかしある時の高熱をきっかけに堰を切ったようにしゃべり続けて、以後平凡な少年になったということです。(羊をめぐる冒険において、彼は耳の素敵な女の子から「平凡な人生をあなたが望んでいるのであって、しかもその平凡はそれほど強固なものではないかもしれない」というようなことを言われるのが印象的。)

 またジェイからも「良い奴だけどあんたにはどこか悟り切ったようなところがある」と言及されています。最終的に「風の歌を聴け」の段階でそのような人間に成長したということですね。

 また、ここでの鼠も他の作品(特に羊をめぐる冒険)から受ける印象とは少し違った鼠の人間性が窺えます。ロマンチストで繊細なところは他の作品においても見受けられますが、強く自分を持って、鋭い意見をぶつけるそんな鼠の明瞭な自我は特にこの作品でしか多くは見られません。

 実際ここで大学を辞め、小説を書いていくという選択をする鼠は割とさっぱりとしています。しかし、そんな鼠も秋が近づくに連れて徐々にナイーブになっていきます。

 そんな鼠の書く小説にはセックスシーンと人の死がないのが特徴です。これが、鼠が「何も書けやしない」と言ったり、「羊をめぐる冒険」において明かされる鼠のラストにも関係するのではないかと思うのです。

 なぜなら村上春樹氏は小説を書くにあたってセックスシーンと人の死を重要視しているのではないかと思うからです。

 「放っておいても人は死ぬし、女と寝る。」

 だから鼠がセックスシーンと人の死を書かないことに納得しているというように書かれていますが、これは実のところどうなのでしょうか。作者本人としては、だからこその性描写をとっているように思えるのです。

 死と性交渉がおおよそ全ての人間に当てはまる要素であるからこそ、それが繰り広げられるタイミングや理由によって、誰かに届ける意味をその小説に込めることがより効果的にできるのではないかと思うのです。

 だからこそ鼠は「自分自身を啓発し続けられるような」作品は書けたとしても、それ以上の意味を持つ作品を書けなかったわけです。

 さらに、鼠は私が思うにどうもこの選択が正しいものではなかったのではないかと思うのです。あまりにナイーブで、周囲の変化や自分というものの孤独に耐えられないからです。

 「自分自身のために書くか、蝉のために書くかさ。」

 「蝉や蛙や蜘蛛や、夏草や風のために何かが書けたらどんなに素敵だろう」

 というようなことを述べているシーンがありましたが、これはつまり、「四季を生きていかなくてはならない『自分』という人間のために書くのか、夏を生きる自分(と同じ意義を持つ宇宙の原理になりゆくものたち)のために書くのか。」ということが言われているのです。

 しかし実のところ鼠は「自分自身」を、夏の間しかうまくコントロールできないわけですから、「自分自身のために書くか、蝉のために書くかさ。」という言葉に関しては、要するに同じものと同じものを比べているわけです。「Aのために書くか、Aのために書くか。」ということと同じことだというわけです。

 そう考えると、セックスシーンと人間の死の除外というのは、的を射た対処なのかもしれませんね。自分にとっても、宇宙にとっても、夏にとっても、性は汚れものであるし死は必要ないのですから。そういった意味で鼠は自分の文脈の中で生きているのであると思います。(少なくとも「風の歌を聴け」では)

 数回「風の歌を聴け」を読み、自分で読み返しながら考察していくと、どうにも鼠についてのことがたくさん書けるような気がします。鼠の方の心の描写の方がより細かく作中に描かれているということもあるのかもしれませんが、自分自身が鼠に少しだけ重なるところがあるからかもしれません。

 二人は違った性質を持っていることから、良いコンビを作っているのではないかと思います。鼠は、(おそらく自分を平凡であると思っているから)あまり自分のことを話そうとしない僕にいろいろなことを質問し、逆に僕は鼠の話をおおよそ突っ込まずに質問を交えて聞く。

 (そして二人の会話の中で僕が喋りすぎると必ず良い雰囲気にはならないが、それでも時に何か考えを述べる僕は鼠を特別視していそう。)そういう二人であるからこそ、特別に三部作が書けるほどのストーリーが生み出されたのであり、粗雑でちんけな人間関係も生まず、円滑でそれでいて情緒的な文章が出てきたのであると思うのです。

 しかし春樹氏はこの作品に関してあまり思い出せることがないらしく、今となっては私がここでいくら論を叩いたところで、その時のことはもう明かされないようです(笑)

 僕と鼠二人の議論はいつも相手に入り込みすぎず、それでいてお互いの中核を引き出すような雰囲気がありました。それはいつも美しく、それでいて論理的で鮮やかでした。

 言葉一つ一つ見出そうと思えば意味を見出せるのも作品の魅力であると私は思います。

 だからこそ、数回読むことを進んで行おうと思えるうえに、読むたびに作品の芸術性を感じられるようになるのです。

4、今回のまとめ

 今回は予想以上に、『感想解釈「僕と鼠について」』が長引いてしまい、ここで一旦区切らせていただきたいと思います。

 次回の記事で、もう一つの、「物語の意義と芸術性」という観点から「風の歌を聴け」を考察し、感想を述べていこうかと思います!

 では次回も、「鼠三部作感想シリーズ第三弾」お楽しみに。

 またこのブログでは、その他映画の感想等も載せておりますので興味がありましたら覗いてみてください♪( ´▽`)

コメント

タイトルとURLをコピーしました