1973年のピンボールは鼠のための小説なのか。

村上春樹

1-2 感想解釈 鼠編

 この頃の鼠は、何か悪い風のようなものを感じていて、鼠自身の時間が切れたような気がしていて、どこにも導かない死んだロープを握ったまま暗闇を歩いているような気分であったというようなことが書かれています。

 つまり観念的な意味で「どこにも行けない」存在になったというような意味なのではないかと思うわけです。もしかしたら大学を辞めた春には、羊をめぐる冒険の羊の影が近づいていたのかもしれません。

 それにこの時は、女のことでも悩んでいました。街を出るか否かについても悩んでいました。相当な苦労が読み取れますし、ただでさえナイーブな鼠としては苦しい時期であったことでしょう。

 このシリーズの第一弾でも述べたように「風の歌を聴け」では大学を辞めるということ、小説を書くことについてそう大きな悩みがあったようにも見受けられませんでした。確かに彼の中にある潜在的なナイーブさはもちろん見え隠れしていますが、何か将来につながる「死んだロープ」を握っているという感覚は少なくとも抱いていなかったはずです。

 この時はむしろ将来につながる「生きたロープ」を探していた、そういうイメージができるのです。そして選んだロープは徐々に力を無くし、死んでいったわけです。

 女と寝ながら霊園を見るシーンもなかなか印象的です。そこで生死と性についての鼠の回想や考えが浮かび上がります。そのシーンはどこか私には悲しく見えました。鼠も含めて皆、死につながる船に乗っているにすぎないのであって、その中でただ一時的に何かを愛してそして性の関係持つというただそれだけのものであるということが悲しく思えたのです。

 そしてある種、自分がその「生きているものの哀しみ」の一部を少なからず背負っているということに焦りを覚えるのです。どうしようもないことですが、そのようなことを我々に思い出させるには、この鼠の心の描写は一定の意味を持っています。

 そのモチベーションのまま鼠の描写を読み続けていくと、自分まで憂愁の念に駆られてしまいます。ジェイとの話は特にそのような悲しみの意味での情緒を含んでいます。ジェイとの話はよく読んでいると、その会話のほとんどが今までの鼠の身辺整理のように聞こえるのです。そのための一つの儀式なのではないか、と。

 実はこの小説の特性上、およそ交互に鼠と僕のシーンが繰り返されます。その構成であることによって、鼠のストーリーの陰気さが緩和されているのです。

 そのためのシーンだけを探して読んでいると、その暗いトーンの連続性と鼠という存在がこの頃ほとんどこの街に取り残された状態でいるという事実に驚愕します。完全に羊をめぐる冒険への伏線が見えるわけですね。その間もは色々な人と話し、様々なことが生活場起こります。実はこの小説は鼠のために書かれた小説なのかもしれないと思いました。

 これは完全に私の勝手な推測ではありますが、双子やピンボールなどの様々なことに一様の意味を授けつつ、そこの隙間に鼠の事情を入れ込むことで、かろうじて鼠のための話が書けたのではないか、と。

 彼は「僕」という存在と同じ小説に並ぶこと自体が不思議な存在とも言えます。あまりにそれぞれ別の特性を持ちすぎているし、その割に芯があるからです。どちらかに比重が置かれなくなるということがむしろ不自然であるとも思うわけです。

 ジェイにこの街を出るということが言いにくいと思う鼠については、「見知らぬ他人が巡り会う、そしてすれ違う。それだけのことだ。しかし鼠の心は傷んだ」と、このように描かれています。

 しかし僕であったらどうでしょう。おそらくここまで心は痛まないはずです。「慣れている」とでもいうところではないでしょうか。

 そんな鼠の描写を見ていると、全体的に暗く、そして重いシーンになっていることがわかります。そしてそれをあえて連結させずに書くことによってその陰気さと鼠の存在自体を全体のフォーカスから外しているようにも見えるのです。

 そのような視点から鼠の変遷を見ることが、ある種この物語の醍醐味の一つと言えるのではないかと思うわけです。

 まとめ

 このような形で二回に分けて鼠三部作のうち「1973年のピンボール」の解釈そして感想を書いてみました。

 ただ頭から読むだけでは考えの及ばなかったことが、この記事を書くことで考察できたような気がします。

 次回からはいよいよ「羊をめぐる冒険」の感想解釈を記事にしたいと思います。

 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!

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