本と育った幼少期

プロフィール

私が小説家になりたいと思ったのはいつのことだったのでしょうか。気がつけば私の思考は言葉による芸術を生み出すところに向かい、中学校に入り社会に含まれざるを得なくなるまでその何かしらかの想いに私という人間は包まれていたような気がします。

 私の両親は本を読むことが好きなので、家を図書館に徒歩で行けるくらいの距離に建て、私の教育に生かそうとしたようです。

私は本を買って読む方が好きなので、今となってはあまり利用しませんが、当時は母に連れられて二週間に一度は図書館に足を運んでいました。

幼稚園から小学校低学年くらい時のことです。当時は読み聞かせをしてもらっていたのでその読み聞かせをしてもらうための本を選んでいるという感じでした。

特に気に入ったものは何度も何度も借りて読んでいました。当時から返したくないと言って泣いていたので、初めからけばよかったのでしょうが何が気にいるかもわからなくて購入するのも憚られたのでしょうね。

また、新しく購入しても初めてその内容に触れた媒体とは違う媒体になってしまうので、それは私にとって不都合なことであったのかもしれません。

特に気に入っていたのは「かぼちゃスープ」「石の鳥のながい旅」です。どちらも絵が綺麗な絵本でした。

あとは「寒がっている匂いがする。」という素敵な表現が入った猫の出てくる絵本。名前が思い出せませんが。(わかる方がいらっしゃったらコメント欄に書いていただけると嬉しいです)

このような絵本たち、いつから読まなくなってしまったのでしょう。そう思うと、自分があの頃とはずいぶん違うところにいるような気がします。

私は小学校一年生くらいまで絵本の読み聞かせをしてもらっていた気がしますが、そのあとは少しずつ活字も読むようになりました。当時の頭では理解できないようなものも読みました。

「本を読む」ということがインテリジェンスで高次な行いだということが幼い私にもわかっていたのでしょう。そのモチベーションを持ってそういった難しいものも読むことができていました。

しかしそれが生きたのかもしれません。どんな理由であれ、とにかく文字を読むことが大事だったのです。その感覚は身に付きます。表現の仕方、素敵な言葉の配列。それを読むことが意味ある行いであること。

そういうものを学んで、言葉の並べ方やそれらへの価値の付け方を体感で身につけました。しかしそれは親によって簡単に操作できてしまうものです。幼い頃に英語のアニメを見せられて育った人が体感で会話英語を習得できるのと同じことですからね。

問題はそれを活用して生きていくには、自分の元々持つ能力が不可欠であり、自分がその後行う積み上げが大事になるということなのです。そして多くの人はそのことに後になってから気がつきます。

ついでに「自分が社会に対してくだらない時間を落としてきすぎたこと」にも気がつきました。そして途方に暮れます。目の前の死んだわかめだけではない。地平線まで見えてしまったのです。

もう戻れない。

私もその一人です。大学受験を終えた時、初めてそう思いました。

中学校、高校と傷つけられてまで具にもつかないコミュニケーションを築き、学校という小社会のなかである一定のランクをつけられて生活する。

それを統括する大人の言うことを聞き、ある決められたタイムスケジュールの中で息をする。

「私」という存在はその小社会の強い流れの中でバラバラにちぎれ、その破片がさらに流れの中で秩序のない塊を作りました。

そして時間は流れ、気がつけば塊となった私は静かな静かな誰もいない渚にいる。

私は気がつきました。元に戻らなければいけない。せめて塊の芯だけでも元に戻さなくては。そして秩序を保てなくなった表面は、もう二度とちぎれてしまわないように作り直さなくては。

そうして出来上がったのです。急ピッチで仕上げました。結局どうあるべきかということさえ見えればそのための微調整は簡単なのです。変えたいと思うそのモチベーションがあるからですね。

そして、中学高校で失いかけた、言葉を綺麗に使い言葉の芸術を信じる心を取り戻したのです。

そして心の奥にひっそりと隠し持っていた小説家への夢をもう一度抱きました。

初めから小社会に騙されてしまわないようにもっと大事にしていればよかったわけなのですが。

 しかしとにかくこのようにして小さな頃の礎も私の思考も相まって今のマインドに持って行けているのです。今までのことは今までのこととして、良いものも悪いものも置いておきましょう。

これからはこのまま、ブログや小説を書くだけです。

素敵な言葉を並べて、誰かを豊かにできたら良い。本気でそう思います。

それでは今回はこんなところで。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

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