毎日が軽いようで重い日だったらいいな

雑記

 自分はあとどれくらいこの生を生きているだろう。そんなことを時々考えたり考えなかったりします。

きっと短い一生の中で、何を考えて、どう生きていけばいいのか、この人生にはっきりとした目的がある私ですら難しいのです。

仕事をして、学校の課題をこなし、時々バーなどにお酒を飲みに行って、またブログや小説の執筆をし、そのようにして暮らしているうちに、どのような価値基準で生きるのが良いのかということをぼんやりと考え始めました。

まず一つは、作家として成功するための活動に専念すること。あるいは仕事や課題などといった将来の保証のような部分にもそこそこに力を注ぎながら毎日を過ごすこと。

もしくは、好きな時に好きなことをして、挑戦したいと思えたことに挑戦すること。

そのようにさまざまに思いを巡らせていたら、生産性を求めないことで、逆に人生が良いものになるような気がしてきたのです。

遊びのあるハンドルで生きることが、軽く見えても実は重い意義を持っていくような感覚です。

人生の価値基準については、作家として成功するための活動に専念することが最も重要であることは前提です。しかしその中で金銭を稼いで生活をしていかなくてはならないという事実も存在しています。その上では、ここの配分を間違うと本末転倒になってしまうわけです。そしてそれが最近までの私でした。

そして、一周まわって考えついたのは、「限られた人生の中で」とかいう考えに至ると、どうしても時間が重要に思えすぎて、行動が生産的なものにならざるを得なくなってくるということです。

つまり、遊びのないハンドルになり、かえって事故を起こすわけです。

限られた人生ではあるけれど、限りないような感覚で生きることができたら、きっとそこには思いがけない感覚の発見があるのだろうと思います。女であり、2001年生まれであり、一人っ子で、この身長、この顔、そうした条件のもとに生まれた自分という個体ができるあらゆるものごとを、できるだけ享受することができるように、なるべく自由に生きること。

そのためには何が重要かというと、「作家になる」という人生の目標以外に大切なものは数えられるほどにしか持たないということ。

大切なものを全く持たないということではありません。大切なものを持つことで見えてくることもあります。ただ、その数は少なくなければいけません。

なぜなら、限られた人生を限りないような感覚でもって生きていくことは、しばしば何かを守るということを妨害するからです。

大切なものはもちろん、規則や約束につけてもです。

しかし魅力的な人生というのは、そこにうまく折り合いをつけながら、自分の感覚にしたがって生きていくことだと、最近は考えているのです。

どちらにせよまだ21歳で、時間も多くあるのだから、気ままにゆっくりと生きていきたいと思います。

日和見主義でとても軽く、吹いたら飛ばされていきそうな意志に基づく選択を持つことの意義が、人生に、作品に、生きればいいな。

それでは今回もここまでお付き合いいただきありがとうございました。

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