羊をめぐる冒険1「水曜日の午後のピクニック」「十六歩歩くことについて」感想解釈〜鼠三部作感想シリーズ第4弾〜

村上春樹

はじめに

 1973年のピンボールでは主に鼠の辿った暗い時期にクローズアップして考察をしてみました。

 そして今回は、続く「羊をめぐる冒険」の解釈をしていこうと思うわけです。

これは実に印象深い作品ですね。1Q 84のようなジャンルの小説で、それまでの二作品とは根本的に違ったニュアンスが漂います。

しかし確実に繋がっているのです。全く仰々しくなく、それぞれ確立した理念のようなものをもち、アイデンティティをもちつつもさりげなく繋がっている。

それが本当に整った印象とどこかしら凛々しさまで感じられるスタイリッシュさをまとっていますよね。

 そんな鼠三部作(青春三部作ともいう)の最後を飾るこの「羊をめぐる冒険」、私的な解釈を挟みつつ、なるべくぴったりと合う適切な言葉で感想を述べていけたら良いと思っています。

 わかりやすく書けるかはわかりませんが、できるだけ頑張ってみます。

羊をめぐる冒険解釈1 「水曜日の午後のピクニック」「十六歩歩くことについて」

 まず、一度私がこの本を読んだとき、この二つの章が初めに来ていて、なんのために存在しているのだろう、と思いました。

しかしそれは全くもって否定的な意味ではありません。これがあることで本題に入るまでの流れがすっきりと滑らかになるうえに、言葉もキャッチーで素敵ときている。麗しい言葉たちなのです。それだけでも一定の意味はあります。

しかし、「ダンス・ダンス・ダンス」(この本はまだざっと読んだだけで完全な読破には及んでいないですが)をみると、ここでは「僕」の性がかなり問題になっているのです。

それはまさしく、「誰とも繋がりを持てない形になっている」ということ。だからこそ人が自分のテリトリーに入っては出ていく、そういうことが繰り返されているのだということが問題になっているというわけなのです。

ですからこのようなところから考えると、この二つの章はここで問題になる「僕」の性をここから明記していくことで確固たるものにしていくための効果があるのだと思います。

「水曜日の午後のピクニック」でも上記のような形で、僕の前に現れ、そして去っていく女性がやはり現れます。

印象的なのはこの女性とのこんなような会話です。

「あなたと一緒に寝ていると悲しくなってしまう。」

……

「別に心を閉ざしているつもりはないんだ。」

もうこの時点で、僕が誰とも本当の意味でつながることができなくなっていることが見え隠れしてきます。

僕が自分でもわからないと言っていることから、僕とは無意識のところで変化が起きていることもわかります。

それ以前は、鼠やジェイとはうまく関係を築けていたような気もするのです。「風の歌を聴け」で出会う指が一本少ない女の子とも、まずまず正常にミュニケーションを取れていたはずです。

しかしあの彼女はもしかしたら未来の僕の写鏡なのではないか、とも思います。「人を好きになろうとしたし、辛抱強くもなろうとした」でも、駄目だった。こんなことを言って、最終的には「僕」にはその後一切会うことはなかったのですから、まるで僕の状況を裏返したようになっているのです。

その「風の歌を聴け」は1970年の八月のことと、かなり限定されています。「羊をめぐる冒険」に関してはメインの年でいうと1978年の出来事です。

ではこの「水曜日の午後のピクニック」はどうでしょう。これはなんと1970年の11月のことなのです。

夏が終わり、秋になるとき僕は「風の歌を聴け」の彼女のように変わってしまったのです。何ものとも心を通じ合うことができない状況になりかけているのです。

この秋には鼠も落ち込んでいました。夏が終わってみんなどこかに帰っていく。つまり誰かとの繋がりが切れていき、それが夏だけに存在しているように感じるから悲しいわけです。

それと同じように、僕の繋がりの糸もあらゆるものからも切れてしまいつつあったのです。

運命共同体とでもいうべきなのでしょうか……。色々と読み直したりして「羊をめぐる冒険」について考えていると、なんだか新たな発見ができ、そんな風に思えてきたのです。

 そしてもう一つ。注目すべきは「十六歩歩くことについて」です。

実はこれも、「水曜日の午後のピクニック」と同じことが言いたいのです。彼女とたちと親密な仲になることができず、両方の女性が最終的に泣いてしまう。

つまり悲しくさせてしまっているということです。それを、僕は「彼女の問題だ」としています。しかし、「ダンス・ダンス・ダンス」では自分というものに問題があるのだとわかった上で行動しています。

おそらく何がずれているのかに気づくのがあまりにも遅かったというだけのことなのでしょう。

この「十六歩歩くことについて」で、妻に「あなたっていう人は砂時計と同じで、砂がなくなったら誰かが来てひっくり返していく」と言われます。

これがいかにも僕の特性を示していますよね。誰かが来て彼に関わっては、どこかに行ってしまう。

砂が終わったら誰かがひっくり返して「いく」ということは、おそらくその誰かはその砂時計が終わる時かその前にいなくなってしまうということなのでしょう。

誰も留まることが無いというわけですね。

なんとなく理解できます。先ほど問題にしていたことと全く同じことが言われているわけですね。

 今回は、「羊をめぐる冒険」まさかの「水曜日の午後のピクニック」と「十六歩歩くことについて」で終わってしまいました(笑)

次回以降はもう少しスピーディにいけたらと思います。丁寧さももちろん心がけつつですが。

では、今回はこんなところで。

お付き合いいただきありがとうございました。

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