私は実は『ノルウェイの森』永沢さんと似ているのかもしれない。私が誘いやお願いを断れないのは何故なのか考えてみた。

雑記

 散歩が習慣の私ですが、道を歩いていると、ふと私の性質のことに関して思考のカーソルが合い、そして思いました。私っていつも人の誘いを断れないけれどどうしてなのだろう。

そこまで楽しくない会合に誘われたり、何かをやっておいてくれと頼まれたり、相談に乗ってくれと言われたり。こういう機会が私には多い気がするのです。

こういう時、私はいつも断れません。ちゃんと他にやりたいことはあるし、自分が今何に時間を使うべきなのか、それはわかっているにも関わらず断れないのです。

それゆえ私は最近では日付を決める段になってはぐらかしたり、誘いづらくなるほど忙しそうに振る舞うことでそもそも誘われる状況を減らしていくという策を講じているほどです……。(これも心苦しいですが)

しかしどうしてちゃんと断れないのだろう。

そこで私は思いました。

それは相手が可哀想だからではないのか?がっかりしてほしくないからではないのか?

確かにそういう側面もあるでしょう。しかし私はそんなに良い人間ではないのです。特に優しい人間でもありません。どちらかというと自分主義。そうでなくてはこんなブログ運営していないでしょう……(笑)

それでは相手のためではないのではないだろうか。

そして私は次にこう思いました。

何かを「断っている自分」があまり好ましくないなのではないか?

少ししっくりきました。私は「自分はこういう存在でありたい」という願望が強い人間で、そこから外れた行動は慎みたいタイプです。それを考えるとおそらく私は私自身のために、断ることを謹んでいたのでしょう……。

ではどうして「断っている自分」が好ましくないのだろう。

そして私はこのことを考えながら十分くらい歩き回り、一つの仮説を導くことができました。それは多分私の中のエッセンスの一部に『ノルウェイの森』中の永沢さん的性格が含まれているからなのではないか、と。

永沢さんはたくさんバーで女の子を誘っては寝るのを繰り返していました。それに虚しさを感じつつも自分は女の子が何を望んでいるかわかるしそれを与えてやれるという能力を使わないということができずにいる。女の子たちが望むものを享受できる可能性を持っているにも関わらずその可能性をみすみす見逃すのが辛いといっている。

そういう気持ちなのだと思うのです。行こうと思えば誘いを断らずに行くこともできる、相談をされれば望んでいる答えやあるいは自分の中で完成された答えを表明し助言することもできる。

また、相談に関しては、うまく助言ができれば相手のためにもなるしその上私自身の満足感にもつながる。くだらないけれど、そういう気持ちもなきにしもあらずと言えます。

しかし私は私の気持ちや必然のもとでそれらを断るしかない。それが苦しいのです。

そしてそれは「できればこうありたい」という自分自身の理想とは少し外れた本能的な自我の部分に内包された観念であって、自分でも特によくは思えない部分。

断れないのは断っている自分が気に食わないと本能的な部分で思う。だから断るととても気持ち悪い。でも、断らずにずるずると自分の時間と可能性を削っていく自分が理性的に嫌だと思うし自分を貫けないその弱さが嫌だとも思う。

こういうアンビバレンスな感情になるのでしょう。それで私はそもそも誘われることを避けに行きつつある。

私は(これは非常に汚い感情だと思うけれど)その本能的な部分を満たしに行くことと、自分の時間と可能性の保護を優先したい理性的な部分を叶えに行くことを両立している状態にあるわけです。

いつか前者は排除したい。

このような形で私は何故断ることができないのか分析してみると、私は自己嫌悪にも似た感情に襲われました。私は自分のありたいと思う姿、状態においてしっかり生きて文章を書き続けたい、そう思いました……。

そんなわけで、今回は散歩中にふと思った私の性質の理由について書いてみました。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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