純文学を尊ぶ私がライトノベルについて思うこと。

雑記

※ライトノベルが好きだという方にとっては少々不快な内容になる可能性がございます。ご理解いただいた上で読み進めてください。

 まずライトノベルに対しての謎の感情がある。それがライトノベルに対して沸き立つとき、そのやり場のなさに憤りにも似た感情を抱きます。

抱くべきではないのかもしれないけれど、周囲にライトノベルや「小説家になろう」などといった作品が好きな人たちがいて、その話を聞かされたり、「今時純文学など誰も読まない」などと言われると不快感を抱いてしまうのは半ば仕方のないことなのではないかとも思います。

私はそういった作品に対して(あるいはそういった作品を好ましく思う人びとに対して)互いに干渉しないという関係性を取りたいのです。そこで両者の間に「価値」という一方向に伸びたベクトルでの議論が展開されると、私としては好ましくありません。

おそらく私の中に「文章とはこのようなものであるべき」という考え方があり、そこから大きく外れたものに(価値を見出す人間がいることは十分理解しているし彼らを批判するつもりはないけれど)私としては価値が見出せないのだろうと思うわけです。

そしてこの間知人同士の会話にてこんなことが起こりました。

私が純文学系の作家になりたいことを知っている二人の知人がいます。彼らと私は今後の将来性や資金繰りの話、私が作家になれるとかなれないとか将来的にはどうするかとかいう話をよくしています。

その会話の中で、「純文学はお金にならない」という話が出てきました。しかしそれは私にとっては分かりきっていることでありますし、お金のために書いているわけではないので到底議論の余地がないわけです。

しかし二人は本の需要の話を続けます。「本の需要の話をするなら小説家になろう(以後「なろう」と略します)の方がよっぽどいい」という話になりました。

そこで二人は何かが無双する話や神がなんとかなどというよくわけのわからないただどこまでも俗らしいタイトルや作品を考案しては楽しんでいます。

よく価値がわかりませんでしたがライトノベルと呼ばれるものの一部となろうと呼ばれるものの作品タイトルを拝見しました。

するとなんともカルチャーショックを受けました。全くもって文章は稚拙でとても活字にして良いものではないという感じだったのです。タイトルもほとんどあらすじをそのまま書いたようななんのひねりもなく芸術性もないタイトルであり、かなり私はショックを受けました。

おそらくこのショックというのは、私が今文章を書くものとして考えれば何者でもなく、当然本も出せない。しかし私はこれでも「小説というのはおよそ美しくそして綺麗な表現がされるもの」という前提のもと書いているわけです。

しかし、そのような「文章」「小説」としてうまく機能していないようなものが平気で売られ、評価されていることに(見方によっては理不尽であるにせよ)憤りを感じるのです。

もちろんそういう作品の方が物語としてのエンターテインメント性はある場合が多いと思われます。

しかし、「文章」というものに対して私が抱く感情が、そして信仰が強すぎるが故に、「文章」であるということの素晴らしさを活かしきれていない作品には少々穿った見方をしてしまうのでしょう。

なんだかライトノベルやなろうの類の作品は「文章」という素敵な媒体を使って書きたい、そうすることでしか書き表せないということから生まれたのではなく、ただ「アニメ化」「漫画化」の敷居が高いからお手軽でコストのかからない「文章」という形にすれば良いや、という惰性から生まれた文章であるような気がするのです。

それは「文章」を軽視しているということではないのだろうか、と私はそう考えてしまうのでしょう。

だから私はその知人二人と話していた時、少しばかりの不快感を抱えたままでいました。私は私、純文学は純文学、ラノベはラノベ。そう思えたら楽なのでしょうが、私はまだいささか神経質なのですね(笑)

しかしとにかくこういう時は純文学の価値をひとり存分感じるべきでしょう。というわけで本を読むことにします(笑)

それでは今回はこんなところで。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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