自由と安全と理想像。

雑記

 これは自分の良いところなのか悪いところなのか、わからないけれど私は多分安全な思考を「格好悪い」と捉える思考の癖があり、自由を追い求め(実際にはただのエゴイズムかもしれないが)色々なものを捨てて何かを選び続ける姿勢を「格好良い理想像」と捉えがちなようです。

それゆえに私は何かを捨てられないとき、ひどい自己嫌悪に襲われます。今だってそうです。

最近いつも口にしていますが、「教職課程」。これさえやめれば私はもう少し自由になれる。

まあ将来的にもやってもいいかなと思えるWebライターの実績を担保することにもブログの執筆をもっと捗らせることにもNFTにもっと精を出すこともさらには原稿をもっとたくさん書くことも空いた時間でできるかもしれない。

さらに言えばもっと私のクオリティ・オブ・ライフ的なところに対する取り組みだって始められるかもしれません。

でも辞めてしまうとなるとおそらく両親は騒ぎだし面倒くさく、将来的にも(文学部ということもあり)なかなかヘビーなことになりかねないでしょう。

そこにエネルギーを使うのもなと躊躇ってしまうのです。それならやる気がないなりに適当にやって、その程度でこなせるなら貰える資格はもらい、そういうことでもないなら脱落者としてもう辞めてしまうというのも手段の一つだなと。

本当であればもうここでバッサリと切ってしまい、素敵で自由ででも貧乏な豊かな生活を送り、本当の本当にやるべきことをやっていくというのが理想ですがどうも私は色々なものが捨てられないタイプであるみたいです。

こんなことを言っているようではやはり作家などにはなれないのですかね。それともこのどうしようもなく荒んだナイーブさを表現できたらそれは何かの役に立つのでしょうか。

あえて自分自身に負荷をかけなければならないのでしょうか。

もうよくわからないのですがこのたまらないほど降り積もった不甲斐なさをどうにかして吐き出したくて今文章を書いています。

もうすぐ四月。余計にこれからの自分について考えすぎてしまう時期ですね……。

桜でも見に行って気分転換しようかな……(´ε` )

ひとまず今回はこんなところで。ここまでお付き合いいただきありがとうございました!

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