朝起きて生姜紅茶を飲み、ブログを書き、小説も少し書き、散歩をして、大学の課題をやって、ご飯を作って食べて片付けをして、入浴そして就寝、と。
毎日同じことしかしていないな。
細かいことを言えばもちろん違いますが、大雑把に言えば同じようなことをしているにすぎません。しかし同じにならざるを得ない。私がやっていることはことごとく継続すべき事柄ですからね。
でも多分ルーティーン化することは別に悪いことなのではなくて、ただその状況が固定化されているということに過ぎないのだと思います。
そうはいっても、難しい。そういうどうにもならない、良いとも悪いとも判断がつかないようなことに抱いてしまう気持ちを整理するのは難しい。
だから一時的に、もしかしたら長い目で見ればなんの解決策にもなっていないのかもしれないけれどそれでも旅行に行ったり、わざわざ喫茶店でいつもと同じ仕事をしたりするのではないだろうかと、そう思うわけです。
私はルーティーンの中で、そのルーティーンをひどく忌避していて、悲しみを抱き、まるで何処にも行けなくなったような気分になる。
私は私の意思に基づいて意思決定をして生きていくことが不可能なことのようにすら思えてくる。
私が私であるという状況などどの時間軸にも存在していないのではないかという錯覚に陥るわけです。
私はそういう時本当につらく思います。ですから、その精神の状態をかろうじて安定させるために私は散歩に出かけます。
しかし、結局のところ一時的なものですから、折り返し地点までは清々しい心持ちになるのですが帰ることになると、ああ、またあのなまぬるい空気の漂う空間で何かしなくては。前に進まねば。そう思うのです。
「気晴らし」が私の首をまた締めるわけです。
しかしその生ぬるさが一定の幸福であり安定であることもわかっているのです。
それでも私はどうしても自由への憧れを捨てきれないわけです。若さゆえなのかな。
毎日のルーティーン化を避けるために、散歩に行ってきます。もうそれすらルーティーンかもしれないということに対しては目を瞑って。
それでは今回はこんなところで。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
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