社会にいるということがどういうことか。

雑記

 会社で働く知り合いと社会やお金に関して話す機会がありまして私は一つ思ったことがあります。

社会に呑まれるということを恐ろしいことだと思い、それを避けるための選択肢を模索中ではあったのですが、その感覚は正しかったということです。

社会とは残忍です。

彼が社会に出て思ったことは、自分が相当かたい意志を持っていないと呑まれてしまうことは必然であるということだったそうです。

上層部はそのような環境に何十年といるわけですから、そのような凝り固まった考え方をする人が比較的多いのだとか。あるいはこの時代にもかかわらず飲みの席ではセクハラ発言、無茶振り、こんなことは当たり前のことのようです。

そして、飲みの席ではそのように女性に負担をかけ、苦しめている反面、昇進の機会は女性には全く訪れない。

できる女性よりも多少仕事の遅い男性の方が昇進してしまうそうです。もちろん業種にもよるとは思われますが、彼のいる会社はそういう会社だそうです。

私はやっぱりなと思いました。

私は女であるということにあまり満足していません。以前他の記事でこのことについてはじっくりとお話しさせていただいたようにも思いますが、とにかく「女」というものが不利になりすぎているのです。

全てはこの肉体のせいです。肉体の作りが違うから、生物学的な役割を無差別に押し付けられてしまっているから、そういう不当な扱いを受けることが多々あるわけです。

そんな役割はすでに捨てている人やもうすでにやり終えているという人、両立させようと試みる人、色々なパターンがあるわけです。

しかしまあ理解されない。事実として女性は妊娠出産育児等の「役割」によって休暇を取らざるを得ない場合もあるので使い勝手の観点から昇進をさせにくい事情もわかりますが、そんなのは非人道的だと思う。

別にフェミニストだとかいうつもりはありません。私は、そういう場に行かなくてはならなくなったらその辺りの不当な扱いは受け入れるつもりです。なぜなら、脱却したければ社会という柵の中で飼われているようではいけないからです。

もちろんそんな扱いはあんまりにも酷いですが、抜け出す方法はそれしかないのです。

そんな風に、以前に増して強く思いました。社会に蔓延る悪というのは本当に身近にあったのだということがどうも私を苦しくさせたのです。

では、今回はこんなところで。今回もここまでお付き合いいただきありがとうございました( ´▽`)

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