悲しい物語を好む私は冷徹なのか。

雑記

 悲しい物語は好き。

読むも、みるも、聞くも好き。自分が作る物語はたいていどこかしらに寂しさが残るようになっている。

物語に悲しみがないようでは、まるで人の心に残らないと思うからです。そしてもう一つ決定的なこと。

物語はえてして、悲しくなければ美しくないのです。悲しいからこそ一つ一つの言葉やギミックが深い意味を持ってくるからです。

喜びは単純なものです。そういうものでは深みが出にくいという訳です。

だから私は悲しい物語を好み、そして書きます。

先日の金曜ロードショーの「風立ちぬ」など、まさに私の好みに合うのです。(「風立ちぬ」感想記事下に貼っておきます)

しかしこのブログの運営を手伝うS氏は私に言います。

「あまり悲しい話は好きじゃないな。美しいとは思うけれど悲しくなってしまって見ていられない……。」

その時気が付きました。

おそらく私は感情移入が他の人よりもできないのだと。しかし自分がもし少ない命であったりバッドエンドに導かれてしまったらそれは耐えられません。誰も自分に芸術性なんか求めません。だって自分のことであれば睡眠も排泄も何もかも見ているし、漫画だって読んでしまうのですから。

するとS氏はさらに言います。

「じゃあもし自分の身の回りの人(友達や知り合い、家族)がそういうバッドエンド的な終わり方をしたらどう思うの?」

私はどう思うのだろう?と思いました。まず前提として私は感情移入という側面においてかなり疎い。

しばらく考えて私はその問いに対する答えを見つけました。

「残念だったなとは思うけれど、基本的にはどっちでもいいかな。」

S氏は、どうしてこんな人に小説が書けるの!?と困惑していましたがしばらくして、「ああ、そうか、”らいす”は芸術家なんだ。人は、美しい悲劇のためのコマでしかないんだ、きっと。それなら納得だ。」

そう言って一人で納得していたのですが、私はそんな言い方はいかにも私が薄情で残虐な人間のように聞こえてしまうではないかと思いました。

しかし、少し考えて見るとS氏の言ったことは案外的を射ているのではないかと思い始めました。

自分や本当に近しい人がバッドエンド、これは不可。

物語の人物がバッドエンド、これは可でありさらに言えば良。

では、自分のテリトリーでもなく、物語の人物でもない人々は?

半ばそれは生活を伴う現実性を保ちながら、自分以外であるつまり感情移入しにくい存在。

私からすると、彼らには芸術性も求めなければ現実の痛みも伴わないのです。

それは「どちらでもよい」という結論を導き出させるに十分な思考であるのです。私は冷徹な人間なのだろうか。美しさを好むゆえに人の心を忘れたものなのだろうか。

だけれど、悲しみという感情だけはよく知っている。それは私が感じやすい思いだからです。

しかし私は良し悪しも本来つかないような考え方というものに対して何か一方からの意見をもとに変更を加えることはできません。

それゆえひとまずこのままやっていく必要がある。

このまま、思うものを書き留め、表現し、好きな作品を見聞しそして読む。

それしかないのです。

悲しみ至上主義者は孤独かもしれません。しかし、美しさと悲しさそれ自体をよく知っていると思うのです。

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