文学的繋がりを基礎とする人間関係について

雑記

 いかにも文学的な繋がり。それは確実に存在する。

それは、相手の心がわかるということであり、そしてその「心」というのはよく考えを巡らせた後の「心」でなくてはならない。

それが達成せられたとき、村上春樹の小説に出てくるような会話ができたり、少なくともそういう人間関係を築くことができるのだと思います。

そしてえてしてそれは二人の人間によって作られる人間関係に生まれるものであります。それ以上の人が関わり合うと実際にはテイスト違いになりかねません。

だからこそ、話が合わなくなってうわべだけの話をすることになったり分裂したりすることになってしまう。よくあることだと思います。

でもそれはそれで楽しいと思う。だけれど、私のような人間にとっては大人数で同じテイストの会話をすることが難しいのです。

なにせ朴訥であるうえ、会話にも独特のテイストが出てしまうからです。あるいは、それを無理に隠したり何かに合わせようとすると、あらゆる言葉に違和感がまとわりついたり疲れてしまったりするのです。

そういう私は友人との会話にシリアスを求めているように思います。もちろんあくまで比率の問題ですが。

真剣な相談ごとなどになると、私も適切なことを話せる気がするのです。ノリや空気を察知したり一般的に適切と思われる回答をすることが苦手なのであって、私の思うことを話せというなら正解はありませんし、それなら朴訥さが少し軽減されるように思うのです。

それに言葉として出てくる悩みというのは、その個人がどれだけ悩んだか、さらに言えばどれだけ真剣に考えることができるのかということが反映されやすいものだと思います。

すると、それが同じくらいであればおそらく無理なく同じ時間を楽しめる相手であると思うのです。

あるいはその程度が同じでも少し違った視点でものを考えていることがわかれば、そういう考え方もあるのか、と新たな収穫となるはずです。そして同時にその相手への理解にもつながるわけですね。

そうして、私には数は少ないけれどそういう相手はいるゆえ、二人でスタバのドリンクを片手にベンチで四時間くらい話していても全く飽きないのです、

そして文学的な時間を過ごしているような気分にもなる。自分自身も文学的な答えを探す営みをする。

我々のような人間には、そういう時間が重要な気がするのです。

そういうわけで今日は、友人と素敵な時間を過ごせたのです。

さて。今日はもう夜も深い。ゆっくりと寝ることにします。それでは今回はこんなところで。ここまでお付き合いいただきありがとうございました!

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