映画「余命10年」を観てきました。

映画

 なんとなくこういうテイストの邦画が好きなようで、よく映画館で小松菜奈を見ているような気がします。(笑)

大抵の映画は、この間の「ドライブ・マイ・カー」のような素晴らしい映像美を作れているわけではなく、どこか大衆に寄り過ぎているように見えるので正直そこまで期待はせずに、中身中心に楽しもうと思って映画館に行きました。

しかしこの「余命10年」は中身自体は大衆をもちろん意識しているけれど、映像の作り方がどうも本格的。チープな感じがせず、リアリティが追求されているように見えました。

家の中、頻繁に連絡をよこすお父さん等の家族、背中の写し方、そういったものが、監督自身も「ヒューマンドラマを描いた」と述べていることからもわかるように完璧に表現されていたように思えました。

この記事ではまず全体的なストーリーに関する記述をし、二つ目の見出しで坂口健太郎さんの演技についてを中心とした映像作品としての私的考察を記述していこうと思います。

「余命10年」全体的なストーリーを見ての感想

 生きたくても生きられない人がいること、死というものが存在すること、全部わかっていたはずなのに、わかっていなかったということが、この作品を観て一番初めに思ったことでした。

それでも、私は「こういう人もいるのだから自分は何があっても生きなくては」なんてことはあまりにおこがましくて思えないタチなのですが、私が当たり前に理解していたはずのことを理解できていなかったことがわかって恐ろしい気持ちになったのは事実です。

命が短い人のことだけではなく、普通に就職して普通に生きている人のことも含めて。多分知らなかったのだと思う。

また、死ぬことがリアルになると、死ぬことしか考えられなくなるのは恐ろしいことであるとも思いました。何かを始めるとき、やめるとき、あと何年、と打算的にならなくてはならないから自ずと、死期を知らされてしない10年と知らされている10年とでは全く意味が変わってくる。当然ハイリスクな賭けに出ることはできないので人生の幅というものは大きく左右されます。

また周囲の人々を見て、生きる死ぬという壮大なテーマを抱えながら生きなくてはならないことは多分相当の苦痛だろうということは想像に難くありません。

ストーリー自体は起承転結が読めて、およそ一般的と言えるかもしれませんがやはりテーマの部分からして重厚感が違うので多くの人が観て、自分の見えていなかった世界があったということを知る必要があるのではないかと思います。

映像作品としての「余命10年」坂口健太郎さんの演技についても言及

 序盤で述べたように、この作品は映像作品としても人の感情をうまく描くことに特化した価値ある作品に仕上がっているのではないかと思います。

邦画特有の微妙なチープさのようなところが少なく見られたのはいうまでもなく評価されるべき点ですし、「ドライブ・マイ・カー」ほど芸術に振り切れていない分、人の感情の動きをより多くの人に伝えるということはできるでしょう。

そのような意味でテーマ性にあった表現方法が取れている、と感じました。

坂口健太郎さんの名前を出したのですが、彼の演技が素晴らしかったように思えました。もちろん小松菜奈さんの演技も自然で素晴らしかったのですが、坂口さんの演技にはリアリティーの追求という意味で感激させられました。

最初から最後まで冴えない感じを演出していて、「ごめんなさい」という言葉の発し方も、すごく絶妙にリアルなのです。

小松菜奈さんへの想いの伝え方もなんだかずっともじもじとしていていかにも恋愛経験がなく初めて恋に落ちたというような感じを演出していました。

そうした演技を見ていると自然と坂口さんにとって決して数多い恋愛の一つということではないことがわかるので、物語の重さがより一層増すのではないかと思われるのです。

つまり、この作品の価値、重さというのは実はこの坂口さんの名演技によるところもあるのではないかと思われたわけです。

多くの人にとって何かしら意味を持つ作品

 映像作品としても、またストーリーとしても絶対に観たひとにとって何かしらの意味はあるものになっていると思いました。

見えていなかったものが見える、それは価値の見出せなかったものにも価値を見出せるようになる、という人生を豊かにするプロセスであるとも思います。

お時間があれば観に行ってみてください(*≧∀≦*)

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