強くあるとはなんだろう

プロフィール

 本当はどんな感覚も加工してしまいたくはない。例えば悲しいと思ったとき、それを何かに昇華させたり、それを怒りに変えて心を救ったり。

私はそうじゃなくて、悲しみは悲しみであると直接思いたい。それをもう十分だと思うほど受け止めてその最後にやっと表現したいと思っているということです。

でも時に、悲しみなんて感性なんてそんなものがあるから、その収拾をつけるために芸術家とか文学者とかがそれと美しさを紐付けて尻拭いをしなくてはならなくなったのだ、と怒りを感じてしまうこともある。

もとはそれだってちゃんとした鮮やかな悲しみだったのに。

それで私はそんなふうにいろんなものを曲げたくなくて表現者になりたいと思ったし強くなりたいと思った。そこに強さがあれば私は悲しみを悲しみとしか捉えなくて済むのではないかと思ったからです。

しかし、そうでなかったのかもしれないとふと頭をよぎったのは先日のことでした。

私はここ二、三年でずいぶん強くなった。ぶれなくなった。どこまで悲しみを貫いても虚しさを貫いても必ず戻って来られるような軸を形成し始めたのだと思うのです。

だから安心して悲しみを悲しみとして受け取ることができる。そう思っていたのです。

それゆえ私はクールな人あたりになっていきました。いつも自分の軸を手放さないように気を張っていたのかもしれません。

しかし先日、愛猫ねこび君が亡くなった時、抑えきれずに泣いていたら母親に「お前にはもう人の心や豊かな感受性がなくなったのかもしれないと思っていたけれどそうではなかったんだな」と言われ、はっとしたのです。

私は確かに強くあろうとしたけれどすぐに泣いて悲しみ苦しむ、それが本質でそれを守り抜くために強くなろうとしたのに、いつの間にか保護しすぎていたということなのか、ということにふと気づいたわけです。

そうはいってもスタンスを変えるわけではありませんが(私が目的を達成するためには必要な要素だと思っているから)、しかし強さもナイーブさも忘れてはいけないのでしょう。

どちらかをなくせば何かが粗くなるということを覚えておかなくてはいけない。

そんなふうに自分自身のことについて思いました。

まだまだ自分自身のこともそれを取り巻くあらゆるものたちのこともわかっていないのでしょうね。

これからゆっくり知っていきます。

ひとまず、今回もここまでお付き合いいただきありがとうございました。

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