『清純な紙』(2021年むさしの学生小説コンクール落選作)

珈々らいす作品

はじめに(前回の『悲しきビー玉』の記事にて書いたものと同様です)

 むさしの学生小説コンクール(テーマ;学校2021+)に応募し、落選した作品の一つです。読み返すとなかなか奇抜なものもあったため、載せられそうなもののみ載せるつもりです。

この作品は載せられるものだと判断したのでこちらにアップします!

短編小説になっていますのでお気軽に読んで頂ければと思います。

ブログの特性上、横文字での表記になってしまっておりますがお許しください。また、落選作ゆえ未熟な点もあるやもしれませんがどうか温かい目でご覧ください。

本編

 ますめの線は歪み、徐々に白に溶け込んでいく。そしてまたふと気がついたところで一気に視界がクリアになり、また私自身の内面とそして外界とを戦わせる作業を始める。すると再びますめは消滅する。右手はシャープペンシルを握ったまま固まり、左手は物憂げに小さく机のふちに触れている。黄色いシミだらけのカーテンは窓の隙間風に吹かれて大袈裟に舞った。太陽は力を無くし始め、どこからか烏の声がする。烏はどこから生まれ、どこに帰っていくのだろう。やはり人間と同じだろうか。しかし烏というのは人間なんかよりもよっぽど自分を語るのが上手い。

 人間という種の中には色々なものがいる。母だったり父だったり、あるいは画家であるとか手品師であるとか、教師であるとか。皆そういうものにならなくては自分を語れない。自分という箱を自分という要素で満たすことができないのだ。そんなタイプの人間は今、目の前にもいる。教師だ。私は机につき、こうしてくだらないことを様々に思考しているわけだが彼は教団の上でこれまた教師用の机につき採点か何かをしているというわけだ。彼はおよそ二十分前、私に言った。

「ねえ、みんなもう帰っちゃったけどさ、君わかってる?」

「何がですか。」

「この講習は、小論文対策のためにあるんだよね。つまり言いたいことわかる?」

「嘘でもいいから早く書いてくれってことですよね。」

「よくわかっているではないか。」

 私は黙り込んだ。この人間に何を言っても仕方がないと思った。ただ水の泡になって消えていくだけだ。そもそも幾重にも重なった偶然によって目に見えないような馬鹿げた存在が見えたということに過ぎない。

 原稿用紙のますめはあらゆることに十分な理解をしていないようにみえた。原稿用紙はただ原稿用紙であり、何かを望んでいるようには見えない。人間が何かものを書くための紙として作り出した存在であるのに、それ自体がそれ自体を維持したいという欲望を持ち、それが自我となってしまった。だからこそ私としてはそんな原稿用紙たちを無駄にしたくはない。要するに私の都合に任せた身勝手な戯言などを書きたくはないのだ。それに私自身だって常に誠実に真実を語ることのみをできるわけではないにしろ、せめて与えられた課題についてくらいは真剣に答えたいのだ。しかし今日のテーマはいささか直球すぎる。それに私の思うところとは全く別の範疇にある問題なのだ。私は行き詰まった。何も書けなくなってしまったのだ。そして私は原稿用紙と、「新型ウイルスと社会について思うことを書きなさい」というテーマと文字数などの細々とした条件が書かれた紙が置かれた机を前に止まっている。おそらく私はこの疫病社会を前にして膝を抱え続けていたから、自然と渋谷に転がる空き缶のようになってしまったのだろう。私は私のことしか考えていなかった。私がこの社会から与えられた時間をどう過ごすかということしか考えていなかったのだ。同時に他の人のことについては考えることができなかった。顔も名前も知らない誰かが病床の上で苦しんでいる。でも私は苦しくない。その病床のシーツの香りは粗く他人的で奥行きのない香り。でも私はそれを感じない。顔も名前も知らない誰かが友達同士でファミレスに行くこともできずに恋の悩みを抱えたままでいる。でも私は恋の悩みなどないし友達なんてあてにしていない。顔も名前も知らない誰かが遠隔での仕事で家にこもりきりになり、老けた妻といつも言い争いをする。でも私は誰とも言い争いをしないし、誰にも理解なんて求めていないからそんな彼らのことは黙殺すれば良いと思っている。結局誰のことも理解できない。つまり同情もできない。結局何が起ころうと私のようなある一定の人間にとってそれは対岸の火事だ。それを見て火が赤いなあと思うだけだ。何も思えないし痛みを感じることもできずに、ただそれを認識するに過ぎない。ただひたすらに自分自身のことしか考えることができない。そして思うことは、結局のところ私はこの状況に何とも思っていないということなのだ。むしろ私に時間が与えられたことを喜んでいるくらいだ。人間とは恐ろしいものだ。インドで生まれたあれほど崇高な仏教の思想を、結果的にはただの葬儀業者にしてしまうくらいの力は持っている。そんな力と薄情さを水の中で溶いて色々な場所に撒いてしまえば、これだけでシステマチックで生活的な社会は生まれてしまう。結局形になるか自ら感じることかでしかそれらに対して心を使えないのだから何も言及はできないのだ。つまり、私は嘘を書くことすらできない。嘘を書いたらそれは本当に嘘になってしまう。

「私、書けません。何時間経ってもこのテーマだけは書けません。」

 教師は怪訝そうな顔をする。眉を顰め、口を、目を細め、唇をキュッと結ぶ。どうしてこれが怪訝そうな顔であると思うことができるのだろう?

「好きにすれば良い。」

 ため息まじりに鋭い口調で言う。

「はい。帰ってもいいですか。私は百年も生きられないんです。時間がないんです。」

 彼は私の言葉を無視して荷物をまとめ、いささか大きな音を立てて椅子をしまう。そして窓の近くに行って開いた窓を閉める。カーテンを挟んでいることにも気が付かずにドアの方に進む。私は席から立ち上がり彼がそのように動くのをじっと見て我慢強く待っている。妙なことで怒られたくはない。こちらとしても相手を理解できないのは悲しいのだ。私は窓に寄り、挟まった可哀想なカーテンを助けると、鞄をもって教室を出た。誰もいない廊下にわざとらしく響く靴音が気だるそうに私の後をどこまでもついてくる。

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